今川義元の木像。「家康没後400年」関連で(2010年撮影)
今川義元の木像。「家康没後400年」関連で(2010年撮影)

 幼年期・青年期の家康は生家である松平氏が凋落し、隣国の駿河・尾張の争いに翻弄された結果、人質として決して本意とはいえない日々を過ごすことになる。運命が変わる転機となったのが、桶狭間の戦いだった。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当する小和田哲男さんが、家康、若き日の危機と決断に迫った。(全3回の3回目)

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 五月十八日、すなわち桶狭間の戦いの五月十九日の前日、元康は義元から大高城(名古屋市緑区)への兵糧入れを命じられている。大高城には、信長が付城として鷲津砦と丸根砦を築いて監視させていた。大高城に向かうには、その二つの砦のすぐ下を通る「大高道」を使わなければならず、砦からの攻撃を防ぎながらの兵糧入れとなる。つまり、兵糧入れといいながらも、大変な軍事行動であった。元康はその大変な任務をやりとげている。

 その報告を受けた義元は、そのまま大高城の守備を命じ、さらに、付城の一つ丸根砦への攻撃を元康に命じている。鷲津砦への攻撃を命じられたのは朝比奈泰朝とされている。

 今川軍による織田方の二つの砦に対する攻撃がはじまったのは、十九日の午前三時ごろといわれている。まさに夜戦である。

 鷲津砦を守っていたのは信長の家臣・飯尾定宗、丸根砦を守っていたのはやはり信長家臣の佐久間盛重だった。両砦とも戦いは長びき、夜明けごろに今川方の優勢勝ちで終わり、元康は大高城に戻った。

 実は、このあたりが運命の分かれ目であった。というのは、元康は大高城に戻ったから命が助かったのである。もし、元康が義元の側にいて同じように行動していれば、桶狭間で信長に討たれていたはずである。

 元康は大高城で、その日の夕方に到着するはずの義元を待っていた。ところが、「今日の昼ごろ、桶狭間のあたりで、織田信長の奇襲を受け、今川義元様が討ち取られたらしい」という噂が耳に入ってきた。元康は、「それは敵の謀略だ。噂にだまされるな」と、当初はその情報を否定していた。

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晴れて岡崎城主となった…