阪神監督時代の吉田義男氏(OP写真通信社)
阪神監督時代の吉田義男氏(OP写真通信社)

 最大16あった借金を前半戦で完済し、今季初の2位浮上と盛り返した阪神。後半戦突入後も、首位・ヤクルトとの3連戦で2勝1敗と勝ち越すなど好調を持続し、「逆転Vもあるで!」と虎党を喜ばせた。

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 ところが、夏の甲子園大会開幕後、恒例の長期ロードに旅立つと、一転勝利の女神に見放されてしまう。

 8月9日のDeNA戦で、2点リードを守れず、痛恨のサヨナラ負けを喫して以来、新型コロナウイルス感染による主力の離脱も影響し、8連敗と黒星街道まっしぐら。「死のロード」という言葉を思い出したファンも多かったはずだ。

 死のロードは、今やほぼ死語となったが、1970年代から2000年代にかけて、「阪神は死のロードがあるから優勝できない」という話がまことしやかに流布されていた。

 1964年を最後に優勝から遠ざかっていた阪神は、70年代前半まで毎年のように巨人と優勝争いを演じながら、シーズン終盤に力尽きて脱落するパターンを繰り返していた。

 死のロードという言葉が定着したのもこのころ。最も体力を消耗する夏場に、約3週間にわたって、移動、また移動の疲労に加え、家に帰ることができない精神的イライラなどから成績を落とし、最終順位にも大きく影響するという、それなりに根拠のある仮説だった。

 当時は新幹線も新大阪止まり。広島への移動に夜行列車を利用するなど、移動時の疲れも現在の比ではなかった。宿泊もホテルではなく、旅館の大部屋で雑魚寝。こんな状況が3週間も続くのは、確かに選手にとっても酷だった。

 とはいえ、巨人のV9が始まった当初は、阪神は長期ロードでも好成績を挙げていた。

 68年はV4達成の巨人と5ゲーム差の2位に終わったが、阪神は8月のロードで15勝2敗(月間成績も19勝2敗)と驚異的な勝率を残している。

 その後も阪神は72年まで5年連続で8月のロードを勝ち越し、少なくとも成績ダウンには直結していなかった。にもかかわらず、優勝を逃しつづけたため、半ばお約束のように死のロードと関連づけられた。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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死のロードがV逸に決定的な影響及ぼした年は?