ラビン首相暗殺を伝える新聞(ニシム・オトマズギン提供)
ラビン首相暗殺を伝える新聞(ニシム・オトマズギン提供)

 首相の暗殺者は大学の法学部生で、テルアビブに近い都市で家族と暮らしていたユダヤ人青年でした。暗殺の動機はイデオロギーで、オスロ合意から続くパレスチナとの和平プロセスを止めたかったのです。安倍元首相のように2度目(1992年)の首相に就任したラビン氏は、紛争を抱える自国の現状を変えようと、困難やリスク、そして国内の政治的反対にもかかわらず、和平を進めることを勇敢に決定し、自分の人生を捧げました。

 ラビン首相暗殺後、イスラエルのメディアは特別番組を組んで、何日もの間、暗殺についていろいろな角度から議論しました。政治家、有名人、世界の指導者、そしてイスラエルと世界中の人々が、国内紙および国際紙のインタビューを受け、悲しみと混乱を表明しました。それから何週間もの間、イスラエル人はラビン首相暗殺の映像を自宅や近所のカフェで何度も何度も見ていました。

 イスラエルの事件で興味深いのは、暗殺後、多くの若いイスラエル人が街頭に出て、自分たちの未来をつくるためにより積極的な行動をとるよう、政府に要求したことです。何万人もの人々が、ラビン首相の家の前や、彼が暗殺された場所で何日も集まって議論しました。当時、いくつかの市民団体も設立され、のちに大きく成長した団体に「平和の世代」があります。 彼らの主なメッセージは、国の政治はベテランやプロの政治家の手だけにとどめるべきではなく、若いイスラエル人へ平和教育を促進し、若者が政治においてより積極的な役割を果たすべきだという主張でした。

 疑いなくラビン首相暗殺は、イスラエル建国後47年(当時)の歴史の中で最もトラウマ的な出来事であり、私たちイスラエル国民は今も重大なことだと感じています。

 27年後の現代も、ラビン首相暗殺のトラウマは残っています。首相や政府高官の警護体制は厳しくなり、政治家は政敵への言葉遣いにも注意を払うようになりました。イスラエルとパレスチナが署名した和平合意は存在し続けており、まだ独立国家ではないけれども、パレスチナ自治政府は西岸地区とガザ地区のほとんどのパレスチナ人の代表として機能しています。その意味ではラビン首相が残した枠組みは今も存在し続けています。

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学校教育でラビン首相について学ぶ