廣瀬陽子教授(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)
廣瀬陽子教授(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)

 ロシアによるウクライナ侵攻の引き金となったのは、プーチン大統領の「積年の怒り」――。世界中の多くの研究者が予想できなかった戦争は、本当に個人的な感情が起因しているのだろうか。慶應義塾大学総合政策学部教授の廣瀬陽子さんが読み解く。

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――欧米やNATOに対する積年の怒りが、今回のウクライナ侵攻を引き起こしたのではないか。その考察を、もう少し詳しく解説してください。

 おそらくプーチン大統領は、自分とロシアを同一人格ととらえているのではないかと思います。そして、「ずっと弾圧を受け続け、自分の尊厳がどんどん切り崩されている」と被害妄想を募らせてきた。振り返れば、1991年のソ連解体を「20世紀最大の悲劇」と表現し、ソ連解体を経たロシア連邦成立後の30年もNATOが東方拡大し、ロシアに対するミサイル防衛システムがヨーロッパに構築されたことや、欧米がロシア周辺国に対する影響力を拡大してきたことなど、全てが許し難いことだった。それらが怒りの源泉となり「ロシアはずっとバカにされてきた」と思い、被害妄想を募らせてきた。

 そもそも、ロシアは、第2次世界大戦において「ナチスからヨーロッパを救ったのはソ連だ」という強い自負があるのに、いつの間にか忘れ去られ、しかも自分の間近で再び「ナチス」が増殖しているといった考えに収斂されてきてしまっています。プーチン大統領がウクライナのゼレンスキー政権を「ネオナチ」と非難しているのは、独ソ戦、すなわち大祖国戦争という歴史と現状を重ね合わせて国民の愛国心を煽るという意味合いがありますが、もしかしたらそれ以上にプーチン大統領にとっては「自分たちが再びナチスを倒す」という大義を本気で信じているのかもしれません。

 もう一つ、鍵となるのが「アイデンティティ」です。昨年7月に新しい国家安全保障戦略が発表されましたが、その中では「ロシアの伝統的価値が国家の安全保障の根幹である」ということが強調されています。安全保障についての話なのに「ロシアの伝統的価値」という言葉が使われている。つまり、ロシアの安全保障もプーチン大統領自身のアイデンティティと非常にリンクしていて、ロシアの伝統的価値を体現することこそが自分の仕事だと思っている可能性は高い。自分が大切にしているものを奪われ、尊厳が乱され、ここで何か行動を起こさなければ手遅れになる――。一般的に見たらまったく合理性はないのですが、プーチン大統領の中では「尊厳を守る」という意味において合理性があったのかもしれません。

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バイデン政権になったことも影響?