センバツではチームを優勝に導いた清峰の今村猛
センバツではチームを優勝に導いた清峰の今村猛

「登った山は必ず下りてこなければならない。そして、また新しい山に登りはじめる」の名言で知られるのが、横浜を春夏連覇も含めて5度全国制覇に導いた渡辺元智監督だ。

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 1973年のセンバツで初優勝した同校は、夏も連覇を期待されながら、神奈川大会準々決勝でまさかの敗退。「私は春のセンバツ優勝という山頂から十分に下山しないまま、夏の大会という別の山の山頂を目指していたのではないか」と反省させられた経験から生まれた言葉だという。

 同様に“春の山”で頂点に立ちながら、“夏の山”を登りきる前に、地方大会で敗れ去ったチームは多く存在する。
 
 81、82年と2年連続でセンバツを制しながら、夏はいずれも甲子園に届かなかったのが、PL学園だ。

 西川佳明(元南海など)、吉村禎章(元巨人)ら超高校級選手を揃えた81年夏は、大阪大会5回戦の大商大堺戦で、8回にエース・西川がつかまり、1対3と逆転負けを喫した。

 翌82年夏も準々決勝の春日丘戦で、1点リードの8回に追いつかれたあと、5対5の9回に本盗で決勝点を奪われてしまう。“打倒PL”を合言葉に、この日のためにサインプレーの練習を重ねてきた春日丘ナインの一か八かの奇襲作戦だった。

 その裏、2死二塁で2年続けてセンバツ決勝で活躍した“春男”佐藤公宏が長打性の大飛球を放つも、センターが背走しながら好捕し、ゲームセット。中村順司監督は「甲子園は遠いです。でも、選手たちはけっして油断したわけではない」と夏を勝ち抜く難しさを強調した。

 一方、“大本命”PLを下し、勢いに乗った公立校の春日丘は、悲願の甲子園初出場を実現している。

 94年にセンバツ初Vをはたした智弁和歌山も、春の山から夏の山への切り替えがうまくできず、連続出場の夢を絶たれた。

 夏の和歌山大会初戦の日高戦は、大久保勝信(元オリックス)に8回まで2点に抑えられたが、9回1死から追いついたあと、延長10回、4対3でようやく振り切った。高嶋仁監督は「受けに回る。勝ち味が遅い。どんなに力があっても、後手に回れば……。高校生なんだから」とナインを戒めたが、次戦でも悪い流れを変えることができなかった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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名将も「負けるときはこんなものなんでしょう」