―――そもそも、なぜ高等女学校はセーラー服を採り入れたのでしょうか。

 明治時代に入って全国に高等女学校が誕生します。はじめのころ通学服は着物とはかまでした。大きな契機になったのは、1919(大正8)年に起こった服装改善運動です。未成年には洋式の服装を着せようという動きです。洋服は、着物とはかまに比べ経済的で体を縛らず機能性があり、多くの人に受け入れられました。それは高等女学校の制服にも大きな影響を与えます。ここでセーラー服、ブレザー、ジャンパースカートの制服が誕生しました。日本で最初に洋式の制服が採り入れられたのは、山脇高等女学校(東京、現・山脇学園高校)です。大正8年のことです。セーラー服については、女子生徒からかわいらしいデザインだと人気があり、支持されます。学校が着せたというより、生徒が好んで着るようになりました。

■セーラー服と関東大震災の関係は?

―――セーラー服の誕生の背景に関東大震災説がありました。これは、どうなのでしょう

 関東大震災のとき和服ゆえ逃げ遅れた者が多かった反省から、洋服が採り入れられセーラー服が普及したという説があります。この立場をとる服飾史の研究者がいます。ですが、これは間違いです。それ以前に洋装化が広がったことによります。

 もう一つ、大きな理由があります。当時、「バスガール」と呼ばれたバスの女性車掌が着る制服が、高等女学校の制服に似ていました。生徒たちはバスガールに間違われることがあり、彼女たちはそれを好ましく思わなかった。バスガールに間違われないよう、セーラー服を望んでいたようです。これには多くの証言が残っています。当時、高等女学校の生徒はバスガールという職業を軽視するほどエリート意識があったのでしょう。

―――同じセーラー服でも私立、公立による違いはあったのでしょうか。

 私立のほうが自由度は尊重されて発想が豊かでした。デザインはシンプルなものでなく創意工夫がなされています。襟にしるされた線の数が多かったり、線に色彩が付けられたり、スカーフがカラフルだったり、かなり特徴的でした。高等女学校の先生が出張で他府県を訪問したとき、他校の制服に魅了されて、自分の学校に採り入れたケースもあります。北陸女学校(石川、現・北陸学院高校)の事務長が横浜を訪れた際、横浜共立女学校(現・横浜共立学園高校)の制服がかっこいいと思い、同校の制服と同じように変えてしまったということもあります。いまでも両校の制服がよく似ていることはウェブサイトで確認できます。公立のほうが斬新さは見られず、シンプルなデザインです。

次のページ
戦後、ブレザーに変わる動きが起きた理由は