リリーフ投手ながら最多勝に輝いたヤクルト・伊東昭光(OP写真通信社)
リリーフ投手ながら最多勝に輝いたヤクルト・伊東昭光(OP写真通信社)

 先発投手はある程度勝ち星が計算できるが、リリーフ投手の白星は、逆転、または同点から勝ち越した結果なので、予測が難しい。加えて、規定投球回数に達することが少ないため、セーブやホールド以外のタイトルには縁遠いイメージがある。

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 だが、過去にはシーズン20勝や最多勝、最高勝率を実現した驚異のリリーフ投手も存在した。

 リリーフ中心の登板ながら、シーズン20勝(うちリリーフで19勝)を挙げ、巨人の“V9元年”に大きく貢献したのが、宮田征典だ(ちなみにNPBのシーズン最多救援勝利の歴代トップは、60年に先発も含めて33勝を記録した大毎・小野正一の21勝)。

 宮田は62年から64年までの3年間で主に先発として15勝12敗を記録したが、チームは先発陣が充実。65年には国鉄の大エース・金田正一も移籍してきた。

「太く短く、でいいから、プロ野球に宮田という名を残したい」と、チャンスを掴もうと必死だった同年5月、川上哲治監督から「リリーフ専門でいくぞ」と言われたことが、大きな転機となる。

 当時はエースがリリーフも兼ねる時代で、リリーフ専門は珍しかった。しかも、宮田の出番は、試合終盤のもう1点もやれない場面と決められていた。

 ストッパーがまだ確立されていない時代に、その先駆者的存在になった宮田は、6月から8月にかけて62試合中36試合に登板。マウンドに上がるとき、後楽園球場の大時計が決まったように午後8時半を指していたことから、“8時半の男”の異名をとった。

 直球と“ミヤボール”と呼ばれる揺れながら落ちるカーブを武器に、同年、宮田は69試合に登板し、20勝5敗、現在のセーブに相当するものが22あり、合計41セーブポイントの大活躍で、本塁打王、打点王の王貞治とともにV1の立役者になった。

 だが、翌年以降は肩、肘の故障に加え、肝臓、心臓障害にも悩まされ、69年に「宮田の名前を大事にしたい」と29歳で引退。まさに太く短く、の投手人生だった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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前代未聞のリーグ最多勝に輝いたのは?