尾崎豊展で展示された写真 (C)Teruhisa Tajima,Isotope 
尾崎豊展で展示された写真 (C)Teruhisa Tajima,Isotope 

 尾崎豊が亡くなって、30年が過ぎた。今なお百貨店などで「尾崎豊展」が開かれたり、ひとり息子で歌手の尾崎裕哉が再注目されたりして、その存在は忘れられずにいる。

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 尾崎の訃報が大々的に広まったのは、死から一夜明けた1992年4月26日。筆者は自宅で購読していた日刊スポーツの一面でそれを知った。たまたま泊まりに来ていた友人に、その記事を見せたところ、彼は「これで本当に伝説になるね」と言い、その「本当に」「なる」という表現に得心した覚えがある。

 それはつまり、生前の尾崎がすでに「伝説的存在」だったからだ。それゆえ、彼は死によってあっという間に伝説化した。早すぎる最期も、その後のゴタゴタも、いわばかなり出来上がっていた伝説を完成させるための残りのピースにすぎない。

 では、彼はいかにして伝説化していったのか。

 シングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」でデビューしたのは、83年12月。しかし、大きな話題にはならなかった。それでも、翌年8月に日比谷野音で行われたライブイベントに出た頃には、業界からもファンからも注目される存在に。たとえば、85年刊行の「尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで」(落合昇平)には、そのライブイベントを見た別のレコード会社スタッフのこんな言葉が紹介されている。

「スケール感、パワーとも申し分ない。それにまだ十八歳という若さも強力な武器だ。男性アイドルが失っている輝かしさもあるからな」

 若いのに実力があり、女性人気も出そう、というわけだ。しかも、尾崎にはもうひとつ「売り」があった。それは、生きざまである。

 デビュー時のキャッチコピーは「もう学校や家には帰りたくない」。登校拒否や非行などが社会問題化していた当時、それを実際に経験して歌にできる才能は大いに需要のあるものだった。高校を停学中にレコーディングをして、自主退学を決断、やめた高校の卒業式の日を選んでデビューライブを行った、というエピソードもメディアやファンから面白がられた。

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宝泉薫

宝泉薫

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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「根性焼き」と「フォークギター」