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岩田:大人社会もまったく同様で、僕もとても気をつけていることに重なります。僕自身、この五年ぐらい若い研修医や学生を教える立場にいますから。

 どうしても爪弾きにされちゃう人がときどき出てくるんです。そういう人って僕から見ても、カチンとくるようなことを結構言っちゃうんですよ。でも、そのときに踏みとどまる。カチンとくるのを自制して、その人の側に立つように自分に言い聞かせています。僕だって、感情のままに流されれば「なんだよ、お前は」となりますよ。それでも「こいつは仲間はずれにしてもいい」という集団の雰囲気には頑として抗い、その人をサポートしなければいけない。周囲に「抗う」のはかなり難しいんですけど、意識してやっています。そうしなければ、いじめにつながり排除が生まれ、ひいてはチーム全体のレベルが落ちてしまいますから。

 ソーシャルメディアも同様です。ツイッターなどの炎上騒動を見ても、集団のノリに抗わないタイプの人は、誰かが「こいつは叩いていい」という犬笛を吹くと一緒になって攻撃を始めちゃう。それが集団になると、ますます堂々と人を傷つける。

内田:ツイッターが大炎上するのは、実はメディア自身が「犬笛」を吹いているからだと思います。メディアにしてみれば、炎上であれ誹謗中傷であれ、それによって閲覧回数が増えればビジネス的には成功なわけです。メディア自身が個人攻撃を「あってはならない」ことだと思って、決然とした態度をとらない限り、SNSが「いじめ」の温床になるということは終わらないと思います。

 メディアはただ情報が行き交う無機的な場じゃない。国民的な合意形成のための対話のプラットフォームです。利用者たちの市民的成熟を支援するものでなければならない。そうである以上は守るべき「品位」と「節度」というものがあって然るべきだと思います。

岩田:皆が一斉に叩いているときに同調しない。それを自分のルールにしています。いじめは常に、マジョリティが、マイノリティに対して行います。だから学校でいじめが起きたとき、教師はマジョリティの逆の立場、つまりマイノリティ側に立つのがプリンシプルです。そしてその先生を、他の教師皆がサポートするのが原則であるべきです。ところが日本の社会って、そういう原理原則を骨抜きにしてしまうところがあるんですよね。

内田:そうです。教員たちの中にも「いじめ」を容認する風土がある。教員個人の「教育力」について査定がなされて、低い評価をされたものは「多少つらい思いをしてもいい」というような雰囲気があるのだとしたら、学校での「いじめ」はなくなりません。