※写真はイメージです(写真/Getty Images)
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 これをやってしまうと、自分で考えることができなくなってしまいます。明治時代になり、夏目漱石や正岡子規といった文学者たちがやろうとしたのは『庭訓往来』的教育からの脱却です。

 自分の目で見たものを自分で考えて、自分で書いた。漱石は新聞の連載小説でご飯を食べていた人で、非常に論理的です。連載1回あたり1000~1200字の中に「文章の山」をつくり、読者に「明日も続きが読みたいな」と思わせる展開になっています。このように文学は、論理を超越する魅力を持っているのです。

 一方、契約書や取扱説明書のような文章には、論理性を超える力はありません。実用的文章ばかりを読んでいるだけでは、人間は受け身になって、発想もどんどん小さくなっていくでしょう。文部科学省は「論理国語」という「庭訓往来」的な教育でつまらない小さい若者をつくっていこうとしているのです。

――文学に触れないことで、ほかにどんな弊害が生まれますか。

「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つに違いありません。

 小学校のころに国語の教科書に載っていた新美南吉の「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」を思い出してください。その人物の気持ちになって考えよう、と授業で習いましたよね。文学は、感情や情緒にかかわる教育も含んでいるのです。

 また、現代社会では、カタカナ言葉のように、わかる人同士しか通じない言葉が増えていますよね。自分の知っている範囲だけ、自分のお気に入りの人、同じコミュニティーの人としか会話・交渉できない若者が増え、分断社会を助長するでしょうね。

 今回の改革が「感情教育は15、16歳までにきちんとしてある。だから、高校からは論理だけでいい」というなら、怒りは湧きませんよ。でもちがうでしょう。

 これから大学入試で少しでも有利になるように、論理的文章ばかり読ませるような国語教育が中学校、小学校と前倒しで行われないか危惧しています。みんなが同じ定型文を覚えてどうするつもりなのでしょうか。文科省がやっている英語教育や英会話もまったく同じです。定型文を覚えることで、表面的な会話はできるようになるかもしれませんが、人と、本当に心を通じ合わせる言葉を編むことはできなくなるに違いありません。

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