※写真はイメージです(gettyimages)
※写真はイメージです(gettyimages)

 秀吉との決戦に敗れ、失意の中落ち延びた光秀。その胸に去来したのは死に場所か、再起への決意か……。諸説ある最期と、死してなお日本人に遺した光秀の思いとは? 週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』から、戦国武将の生き死にを見つめ続けてきた歴史・時代小説作家の江宮隆之による読み解きを前後編に渡ってお届けする。この前編では、光秀の脳裏にあった「足利尊氏の成功」を読み解く。

*  *  *

 天王山の麓・山崎での合戦に敗れた明智光秀は、戦場を離脱すると勝龍寺城に向かった。途中、股肱の臣・藤田伝五は淀城までの血路を切り開いたものの重傷を負い自刃した。こうして何とか辿り着いた勝龍寺城では将兵も激減し、それも夜になって城から離脱する者が増えていく。光秀は、再起を図るにしても最期を遂げるにしても、本拠である坂本城しかあるまい、と思い直した。 羽柴秀吉の軍勢が包囲する中、夜を待って光秀は溝尾庄兵衛茂朝ら数人の家臣に守られて脱出した。天正十年(1582)六月十三日夜半のことであった。

 光秀はまだ希望を捨ててはいなかった。「本拠地の坂本城に着けば安土城に遺した明智左馬の助秀満の1万と合流できるし、毛利や上杉、長宗我部との連携ができれば再起できる」という思いがあったのだ。勿論、再起が不能であれば武門の面目として、本拠・坂本城で潔く自刃する、というのも選択肢の一つではあった。

意外にも拮抗していた
明智軍と羽柴軍の戦死者の数

 確かに秀吉との山崎合戦は、兵力差では3万の秀吉勢に対して光秀軍は1万3千という劣勢であった(諸説あり)。しかも、光秀が頼みにしていた細川藤孝・忠興父子や筒井順慶などの兵力はここにはいない。誰が見ても、この山崎合戦は光秀に勝ち目が薄いことは分かるはずであった。なぜ光秀ほどの智将が、あらゆる意味で無謀ともいえる決戦に真っ正面から立ち向かったのか。少ない史資料からは正確に窺い知ることはできない。

 ただ、決戦場となった山崎は天王山と淀川に挟まれた細長い地域であり、大軍がぶつかり合えるような場所ではなかった。この地形ならば、大軍を擁する秀吉軍も寡兵の明智軍もほぼ同じ兵力で対峙できようし、持久戦にも持ち込める。合戦を長引かせれば、俄か連合ともいえる寄せ集めの軍勢から成る秀吉軍には混乱も予想でき、一度は離反した中川清秀・高山右近らも再び光秀側に寝返る可能性も僅かながらあった。

次のページ
天下人としての意識…