東海寺・現在の本堂
東海寺・現在の本堂

 大根がおいしい季節になった。一年中お店に並んでいる野菜ではあるが、青首大根の旬は12~2月頃らしいので、昔の人はこれを保存しておくために漬物に加工するようになったのだろう。中でも“たくわん漬”は今や日本を代表する保存食のひとつと言えるのではないだろうか。この“たくわん漬”、実はお坊さまの名前からきているという説が有力である。それが沢庵宗彭(たくあんそうほう)で、江戸時代初期に活躍した臨済宗の禅僧なのである。

紫衣事件で流刑の身に

 沢庵宗彭は、織田信長が勢力を広げ始めた天正元(1573)年12月1日(旧暦)に、城下町で知られる但馬国出石(兵庫県豊岡市)で生まれた。羽柴秀吉の侵攻により主君が滅亡、父が浪人したことから10歳で出家する。37歳で京都・大徳寺(臨済宗の大本山)の住職にもなるが、これを3日で辞職し、隠棲をはじめた。ところが、江戸時代に幕府と朝廷の権力争いの中で、「紫衣事件」が起こり、沢庵は一切の非は自らにあるとして流刑処分をうけるのである。簡単に言えば、この頃、将軍の参謀には2人の僧侶(崇伝と天海)がいて、僧侶の高位の証である「紫衣(しえ)」を天皇が授ける行為が、朝廷の収入になっていることを進言、これらを阻止する命令を出したのだ。もちろん朝廷は大反発し、沢庵が矢面に立って幕府の横暴だと反論文を送ったものだから、幕府側は首謀者を捕らえて罰したという事件である(規制は紫衣に留まらず広範囲にわたっていた)。

家光との対面に柳生宗矩が

 この事件は朝廷と幕府の間に大きな溝を生んだが、3年後、徳川秀忠の死による恩赦で流罪は許され、沢庵は江戸でしばらく過ごしたのち大徳寺へ戻る。そして、朝廷との軋轢解消のために京を訪れていた徳川家光と沢庵は対面することなるのだが、これが家光と沢庵が生涯に渡り関わりを持ち続けた始まりである。この面談を強く進めたのが、徳川家の兵法指南役・柳生宗矩だったという。時代劇などで知られる柳生十兵衞の父であり、柳生新陰流は沢庵の教えから誕生した武道だとも言われている。

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鈴子

鈴子

昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

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