渋川春海のお墓は品川の東海寺の墓地に(後ろは東海道新幹線の線路)
渋川春海のお墓は品川の東海寺の墓地に(後ろは東海道新幹線の線路)

 だんだんと日の入りが早くなってきて「秋の日はつるべ落とし」という実感がわくほど日暮れが早くなった。

 カレンダーと天候の関連を感じるのはこんな時だが、日本人が古くから使ってきた陰暦(正確には太陰太陽暦)は、お月さまと季節を元に作られたものなので、ある意味、自然とともにあったものだ。簡単に言えば、新月が1日(朔/ついたち)、満月が15日(望)となり、その真ん中(上弦/下弦の月)が7日と23日、30日は晦日(みそか)と呼ぶ。日本には、30日分の変化するお月さまに対する呼び名があるが、実は世界の海洋民族にはだいたいこの風習が残っている。ちなみに、このお月さまのさまざまな形の日に人々が集まって、月を拝み飲食を共に行うことを宗教行事として「月待」と呼び、「二十三夜」(下弦の月)講は特に有名である。

●お月さまを拝する集まり

 太陽が沈んだ後に月が出てくるのは、満月の頃で、陰暦の1~5日近くまでは日暮れのわずかな時間のみ三日月の形で見ることができ、「二十三夜」の月が昇るのは深夜になる。つまり深夜まで月が出てくるのを待ちながら、堂々と酒会を行うことができたのが「二十三夜」講だったわけである。やたらと規制してくるお上に対抗するために編み出した生活の知恵なのだろう。昔の人は頭がよい。なお、二十二夜は女性のみの集会もあったそうだ。

●旧暦には1年13カ月の年も

 ところが、お月さまの運行だけにたよった暦だと(これを使う文化圏は現在もある)、太陽暦に比べて1年が約11日ほど短くなる。特に日本のような四季のある国では、季節がだんだんとズレていってしまうため、約3年に1度閏月を加えて、1年を13カ月とした。太陽との関係も加味したため「太陰太陽暦」と呼ばれているゆえんである。この暦を修正する上で最も大事にされたのが、夏至・冬至・春分・秋分の日である。

●古来使い続けられた中国暦

 古代から日本では中国の暦が使われてきた。すでに6世紀ごろには朝廷に採用され、その後何度か更新されたが、唐の時代に渡来した宣明暦が江戸時代初期まで使用され続けたのである。唐ではわずか70年しか用いられなかった暦が、日本では800年以上にわたり使用されていたことから、次第に不都合が生じてくるようになる。最初は厳しく管理されていた暦も時代が下るとともに、市井の人たちも手に入れやすくなった一方で、管理が甘くなりそれぞれの土地とも結びついたものなども作られはじめ、地域によっては暦の内容が違ってしまう不具合もあったらしい。

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鈴子

鈴子

昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

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