姫路城
姫路城

 天守がなくとも、城の魅力を十分に堪能できる。そうした城好きの方も、今や相当数おられるに違いない。だが、それでも天守には得難い魅力と歴史的価値がある。何より大きさや美観で天守に勝る城の建造物はないであろう。それが、武士が闊歩した時代につくられたままの姿を今にとどめる「現存天守」ならばなおさらである。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』では、戦国の息吹を今に伝える「現存12天守の秋を愉しむ」を特集。その中からここでは「姫路城」を解説する。

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 姫路駅からまっすぐ延びる大手前通り。向こうに大天守の姿が見え、誰もが迷わず辿りつける。ところが近づいてみると、大天守はすぐ頭上に見えるのに、歩けども歩けども着かない。途中いくつもの城門があり、大小の櫓がそびえ、見どころが多すぎて息つく暇もない。ようやく大天守の下に立ってみると、改めて壮大さが噛みしめられる。近世城郭の到達点を間近に見て、本当に感動ひとしおだ。

 国宝の天守は、現存国内最大規模を誇り、五重六階地下一階。石垣を含めると、高さ約46mにも達する。大天守を南西隅に置き、残りの3隅に東・西・乾3つの小天守が配され、これらを4つの渡櫓で結んだ連立天守である。美観や大きさが注目されがちだが、戦闘的機能を色濃く残す。入口は地下の北西隅に位置し、外は漆喰塗り、内は鉄鋲打ちの厳重な二重扉の堅牢さである。籠城戦に備え、地下には「流し台」と甕を内蔵する便所(雪隠)が設けられ、もちろん現存している。それらが実際に使われることはなかったとはいえ、城が戦の拠点であったことを改めて思い起こさせる。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』から
週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』から

 大天守の内部中央に2本の巨大な東西の心柱、いわゆる大黒柱があり、地階から六階床まで貫通する。各階で高さが異なり、屋根裏階で天井が他の階より低い階もある。乾小天守の最上階は窓格子のない謎の部屋があるなど、入り組んだ構造に驚かされるばかりだ。

 姫路城が歴史の表舞台に登場するのは天正四年(1576)、中国地方の攻略を狙う織田信長の命令で羽柴秀吉が拠点としたときのことだ。世に名高い「中国大返し」では、ここが中継拠点となり、それから7年後に大坂城を建てるまで、重要な拠点であり続けた。ただ、当時の姫路城は今のように大規模ではなかった。

 これに大改修を施したのは池田輝政である。関ヶ原の戦い(1600年)の戦功で、徳川家康から播磨一国を与えられて姫路へ入り、約8年がかりで城を改修。播磨52万石の象徴たる大城郭に生まれ変わらせたのである。

上山里下段の石垣/主要部の南辺にあたる山里曲輪南側に、上下2段の曲輪がある。ここには秀吉が天正時代に築いた石垣が残り、未加工の自然石の隙間に丁寧な間詰めが見られ、往時の姿を伝える
上山里下段の石垣/主要部の南辺にあたる山里曲輪南側に、上下2段の曲輪がある。ここには秀吉が天正時代に築いた石垣が残り、未加工の自然石の隙間に丁寧な間詰めが見られ、往時の姿を伝える

名城の原点を示す石垣群や
個性的な城門をつぶさに観察

 あまりに大規模な姿から、今の姫路城は江戸時代に新造されたものばかりで、戦国期の遺構は残っていない……そのように思われがちだが、実は旧城主・秀吉時代の遺構もかなり多く残存する。

 昭和の大修理(1956年~)の際、大天守の地下に秀吉時代の天守が存在していたことが明らかとなった。また二の丸を中心に同時期の石垣が有効に利用されていることも分かった。「菱の門」の東側、上山里曲輪の下にある石垣などが下からもとくに観察しやすい。そこから繋がる「リの一渡櫓」の下にそびえる石垣なども同様である。大中小、さまざまな未加工の自然石を用い、隙間に小さな石を間詰し、不規則ながら工夫して積まれている。それらは秀吉や黒田孝高(官兵衛)が活躍していた頃の姫路城の原点を物語ってくれる。

 天守群や石垣のほかにも観るべきところは多い。とくに城門はいずれも個性的で、ほかの城では見られない形のものばかりだ。入場口から「菱の門」を通ると、大抵の人はまっすぐ北の「いの門」へ向かう。正規の見学順路と言っても良い。だが東の三国堀の先に「るの門」がある。あたかも沖縄のグスクのような石垣に開いた埋門で、戦時はここから伏兵が出て「いの門」を攻める敵の背後を突くようにできていた。本丸の北側の腰曲輪を守る「ほの門」は、大規模な城にそぐわぬ小ささだが、これも土塀の下の一部を切り取って門にした埋門で、内側から石などで通路を塞ぎやすいようにできている。姫路城の堅城ぶりを裏付ける、こうした細やかな仕掛けも見逃さないようにしたい。

(文/上永哲矢)

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』では、戦国最強の山城「ベスト50」を徹底解説しています