【4位】備中松山城の天守。二重二階の現存天守。現在は西側面の廊下から直接入るが、本来は八の平櫓を経なければ入れなかった。
【4位】備中松山城の天守。二重二階の現存天守。現在は西側面の廊下から直接入るが、本来は八の平櫓を経なければ入れなかった。

 日本全国には3~5万の城があるとされ、その多くが山城だという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17では、城関連の著書も多い歴史学者・小和田泰経氏に自身が訪れた山城を「遺構の保存状態」「防御力」「登りやすさ」「交通アクセス」の4つの基準で採点してもらい、戦国最強で「訪れるべき」山城ベスト50を選出してもらった。ここでは、同率で4位となった城からトップ5を見ていこう。

【1位はどこの城? トップ5の採点詳細や写真はこちら!】

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第4位 備中松山城(岡山県/92点)
天守が現存する唯一無二の山城

 戦国時代に備中松山城をおさえたのは、三村家親である。しかし、三村家親は、備前の宇喜多直家と争い、暗殺されてしまう。このころ、備中には西から毛利輝元、東から織田信長の勢威が拡大してきていた。家親の子元親は毛利氏に従っていたが、元亀三年(1572)、足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏が和睦すると、織田信長に寝返った。三村元親にとって、毛利氏についた宇喜多直家は父の仇だったためである。結局、松山城は毛利・宇喜多軍によって落とされ、以後は毛利氏の支城となる。

 関ヶ原の戦い後、毛利輝元が周防・長門へ転封されると、備中は幕府領となり、総代官として入った小堀正次・政一が松山城に入って修築された。さらに、松山藩主となった水谷氏によって現在も残る天守などが建てられている。

 城は高梁川の東岸にあたり、麓からの高さが350mほどの小松山に築かれている。相当な山城であるため、山上での作事が困難であったのだろう。天守と二重櫓のほか、建物はすべて平櫓である。ただし、山上の主郭部は三ノ丸・厩曲輪・二ノ丸・本丸・後曲輪・水ノ手門脇曲輪の6曲輪から構成されており、防御力は高い。しかも、麓には石垣造りの御根小屋があり、中腹には中太鼓ノ丸や下太鼓ノ丸といった出丸を構えていた。

備中松山城の評価(週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』から)
備中松山城の評価(週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』から)
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同率4位は標高717mの城山にある…