甲子園の優勝投手に入札が行われたことも…※画像はイメージ (c)朝日新聞社
甲子園の優勝投手に入札が行われたことも…※画像はイメージ (c)朝日新聞社

 プロ野球ドラフト制度は1965年からスタートしたが、ドラフト以前の自由競争の時代には、文字どおり、生き馬の目を抜くような激しいスカウト合戦が繰り広げられていた。

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 夏の甲子園優勝投手をめぐり、現在のポスティングも顔負けの入札事件が起きたのは、1953年だった。

 松山商のエース・空谷(児玉)泰は、重い速球と鋭いカーブを武器に、夏の甲子園準決勝までの3試合をいずれも完封。決勝でも土佐を延長13回の末、3対2で下し、見事優勝投手になった。

 大会終了を今か今かと首を長くして待っていたスカウトたちは、「この機を逃してはならじ!」と大挙して松山へ急行。その数は10球団(当時は全13球団)に上った。

 空谷自身はプロ志望だったが、特に意中の球団はなかったため、候補があまりにも多過ぎて、なかなか結論を出せない。

 そこで、各球団は「こうなったら、お金で誠意を見せよう」と、入札を行い、一番条件の良い球団を選んでもらうことにした。高校球児をめぐる入札は、もちろん前代未聞である。

 その裏では、ライバル球団の提示金額を探りだそうと、諜報戦まがいの暗闘も繰り広げられた。そして、南海が契約金200万円を提示するという情報を事前に入手した中日が、10万円上乗せの210万円に加え、チームメートも抱き合わせ入団させるという条件で、獲得に成功した。

 当時の大卒事務職の初任給は9000円程度だったので、210万円は現在なら5000万円近くになるはずだ。

 だが、常軌を逸した入札事件は、高野連の逆鱗に触れる。松山商は1年間の対外試合禁止処分を受けたばかりでなく、処分明けの54年秋の四国大会で準優勝しながら、「品位に欠ける」として翌春のセンバツの選考で落選している。

 阪神と契約した高校生投手が、阪急との二重契約問題で揺れる事件が起きたのは、55年の年末だった。

 鳥取・境高の剛腕・米田哲也は、2年生のときから目をつけていた阪急が、3年夏の大会終了を待って契約を交わしていた。だが、阪神ファンの多い土地柄とあって、その後、阪神入りを熱望する後援者たちが本人サイドを説得し、新たに阪神と契約。同年12月22日にセ連盟に登録した。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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シーズン中にまさかの“引き抜き”