社会の中で負け組になったと思う男性は、勝ち組男を恨まず、自分よりも弱そうな女性に憎しみを向けるのです。DVは世界中にありますし、韓国でミソジニー殺人が起きたように、女性への暴力は日本社会の特殊な事情ではありません。



 もう1つ類似性のみられる事件として、2008年6月8日に起きた秋葉原無差別殺傷事件も取り上げておきたいと思います。加藤智大死刑囚(当時25)は、犯行前、携帯サイトに書き込みをしていました。その中に「彼女さえいればこんなに惨めに生きなくていいのに」といった内容がありました。加藤容疑者は自動車工業で派遣社員として働き、リストラされるかもしれないと自暴自棄になっていました。社会はどんな理由があっても無差別殺傷など許されないと断じる一方で、「彼女さえいれば~」という書き込みついては、男性の識者から同情的な論調があったのを覚えています。

 女性が不遇な男を支えてさえいてくれれば、男は凄惨な事件を起こさずに済んだというような解釈がされたのです。ふざけるな、女性に救ってもらおうとするなよ、と私は言いたかったですね。加害者に同情的な論調は、女性をケアする性とみなしていることの裏返しです。

 彼女さえいれば、というのは、実際は、女性1人を所有すれば男としてのアイデンティティが保てたのに、という解釈の方が正しいでしょう。女性は男性のために存在するものだと無意識に思っているのです。

 こうした意識は、事件の犯人となるような人物の特異な歪みではなく、ふつうの男性にも潜んでいる感情なのです。

 今回の小田急線刺傷事件は、サイコパスや奇人などの特異な人間による犯罪だとみなしてしまえば、人びとにとって「怖いね、遭遇しなくてよかった」で終わってしまうでしょう。しかし、もし、対馬容疑者が、大学を中退せずに安定した職に就き、生活保護を受けていなかったら、誰も刺す理由がなかったかもしれません。


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事件のもう一つの側面