チームは延長戦の末、3対6で敗れたが、スーパー1年生の値千金の一発は、今でも松山商のライト・矢野勝嗣の“奇跡のバックホーム”とともに、この試合のハイライトシーンとして語り継がれている。

 だが、“松坂世代”の中で、いち早く甲子園で活躍したにもかかわらず、これが最初で最後の“聖地”となり、最後の夏も県大会決勝で敗退。プロへのアピールという点では、今ひとつ運に恵まれなかった。

 法大に進学した沢村は、4年秋の早大戦で0対1の9回に和田毅(現ソフトバンク)から同点弾を放つなど、高校時代同様、“持っている男”ぶりを発揮したが、大豊作の松坂世代の陰に隠れ、同じ法大から後藤武敏(西武-DeNA)ら3人がドラフト指名を受けた結果、「社会人経由でも遅くはない」という話になった。

 そして、日本通運時代の09年に公式戦で9本塁打を記録し、アマ球界屈指の強打者になったが、すでに28歳。年齢的にプロはあきらめざるを得なかった。それでも、もしプロから誘いがあれば、行っていたという。

「プロってどんな練習をしてるんだろう?とか、いつも考えてました。いろんな人の指導を受けてみたかった。そしたら自分はどんな選手になっていたんだろう?と」(矢崎良一著「松坂世代、それから」インプレス)。

 社会人で13年間プレーし、10年連続都市対抗出場の快挙も達成した沢村は、現在はチームの監督を務めている。

 01年に史上初のベトナム国籍選手として注目を集めた東洋大姫路の1年生左腕が、グエン・トラン・フォク・アンだ。

 両親はベトナム戦争後も続く混乱から84年にボートピープルとしてホーチミンを脱出。翌年日本で生まれ、小学5年から野球を始めたアンは、高校入学後、6月の練習試合で強豪校相手に好投したのが藤田明彦監督の目に留まり、夏の兵庫大会でベンチ入りをはたした。

 県大会では6試合、26回1/3を投げ、わずか3失点。甲子園でも、1回戦の岐阜三田戦で先発、2回戦の如水館戦では1点リードの9回に抑えとして登板し、2三振を含む3者凡退に切って取った。その原動力となったのは、「僕と入れ替わりに出場できない3年生のために、1イニングでも多く投げる」という使命感だった。

次のページ
“残念の結果”になった元スーパー1年生も…