中京大中京(愛知)の3年時にはエースで4番として、09年夏の甲子園で優勝。日本文理(新潟)との決勝戦は、高校野球ファンの間では今でも語り継がれる熱戦で、その主役としても有名になった。同年のドラフト2位で広島に入団し、2年間の二軍生活で自らを磨き上げ、3年目の12年に開幕スタメンと一軍デビューを同時に果たした。

 12年は144試合にフル出場し、打率.242、14本塁打、45打点を記録。リーグワーストの150三振と課題も残ったが、次世代を担う選手として全国の野球ファンに名前を売った。同年から14年まで3年連続オールスターに出場したが、15年以降は出場機会が激減し、広島がリーグ3連覇中だった16~18年は一、二軍を行き来する状態に。特に19年は自己最少の28試合出場に終わり、戦力外の心配もされるほどだった。

「練習量はチームでトップ。秋と春のキャンプではグラウンドが暗くなるまでバットを振り、ボールを追っていた。毎日、泥だらけです。その後に夜間練習をする時もある。お願いしていたインタビュー開始が夜8時頃からだったこともある。他球団の選手は、遅くとも夕方5時くらい。信じれない練習量です」(スポーツ雑誌フリーライター)

「見た目から勘違いされやすいですが、男っぽくて根性がある。野球が好きだし練習をとことんやる。自分が納得するまで練習をやめようとしない。天才型ではなく努力型。身体が大きくなっているのが目に見えてわかる。頑張っているのを知っているから、昨年の結果はみんなが喜んでいた」(広島関係者)

 今年の春季キャンプも、調整は順調に進んでいた。しかし体調不良を感じ3月13日オープン戦・日本ハム戦(マツダ)を欠場。その後も関東遠征に帯同せずコンディション調整に努め、シーズン開幕には間に合ったものの結果が出ない日々がここまで続いている。

 オープン戦で2試合連続の欠場となった3月14日の日本ハム戦では、NHKのテレビ中継で解説を務めていた緒方孝市前監督が「一番気になるのは堂林ですよね。開幕の為に早めに休ませるという処置なのか」と堂林の状態を心配するコメントを出していた。開幕戦には間に合ったが、その後の様子を見ても万全とは遠い段階での見切り発車だったのかもしれない。

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不調の原因は強すぎる責任感?