チームを勝利に導いたあとも、「北別府さんに申し訳ない」の気持ちは、消えることがなかったのだ。

 そんな一切の妥協を許さぬ一徹さも相まって、この話は「北別府の200勝目を消してしまった」と尾ひれ付きの“伝説”として語られることも多い。

 94年にはリーグ2位の打率.321と球界を代表する大打者に成長した前田だったが、翌95年5月23日のヤクルト戦で右アキレス腱を断裂。その後も右太もも肉離れや左アキレス腱の手術など、相次ぐ故障との苦闘が続く。満足に走れず、守れない自らを肯定できず、「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」などの自虐的発言も出た。

 鈴木尚典(横浜)と首位打者を争った98年には、「頑張って」と激励した女性ファンに「お前に言われんでもわかっとるわ!」と言い返したとされる話が新聞報道され、変人のイメージに拍車をかけることになった。

 02年4月6日の中日戦では、二塁走者のときに、2度にわたって中前安打で三塁に止まったプレーが、打点数が大きく反映される出来高契約を結んでいたロペスの怒りを買い、試合中にベンチ裏で殴りかかられる事件も起きた。

 自分の成績しか眼中にないロペスに非があるのは明らかだが、前田も全盛期とほど遠い足の状態に悔しい思いをし、自分自身を責めたことだろう。

 同年はカムバック賞を受賞したものの、「こんな体で野球をしていいんか?プロとして恥ずかしくないんか?」の葛藤は消えず、04年オフには、DH制のあるパ・リーグへの移籍を申し出た。

 しかし、残留が決まると、前田は広島で野球人生を全うしようと腹を括り、翌05年、12年ぶりに全試合フル出場を達成。07年には、史上36人目の通算2000本安打にリーチをかけ、9月1日の中日戦に臨んだが、1打席目から二ゴロ、中飛、二ゴロ、二ゴロ併殺打となかなか快音が聞かれない。

 そんな生みの苦しみのなか、広島は8回に嶋重宣の3ランで9対7と逆転。だが、あと3人出塁しなければ、前田まで打順は回ってこない。本人も「今日はない」と覚悟した。

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「前田さんまで回せ」を合言葉に…