渡米当時は英語もまともに話せない状況、ホームシックなどがあったことも想像できる。簡単なことではなかったはずだが、「デカくなって見返す」という気持ちだったので気にならなかったと振り返る。負けず嫌いでポジティブな思考が、トレーニングに駆り立てた。身体ができてくると共にアメフトも上達。大学はテキサス大サンアントニオ校でプレー、周囲の選手から多くを学んだ。

「大学ではレッドシャツ(練習生扱い)のシーズンが1年あった。この時期が自分を大きく成長させてくれたのは間違いない。手術などをしたがシーズンインにはプレーできる状態だったけど、チームと自分のためにレッドシャツをやる、と決めた。ここが自分にとって多くを学べた時期だった。サイドライン(ベンチ外)にいることで、トレーニングもできたし多くの選手から色々学べた」

 レッドシャツ時のチームメイトには、後にラウンドワンドラフト(18年1巡目14位指名)されるマーカス・ダベンポート(セインツ)がいた。4年時にはオールアメリカン・ラインバッカーのジョサイア・タウエファ(ジャイアンツ)と共にプレーした。全米最高クラスの選手たちから得るものは大きかった。

「NFLやCFLでプレーすることは小さい頃から夢だった。実際にプロ入りする選手も近くで見ていたしね。でも大学4年の『プロ・デー』という、プロのスカウトによる公開トライアウトの日にスカウトされなかった。だから北米でプレーすることは少しギブアップして、Xリーグへ行った」

 フィジカル、メンタル両面の足りなさ、レベルアップの必要性を感じた。帰国してXリーグでのプレーを選択。国内リーグのレベルの高さも感じたが、同時に違いもあった。プレースタイルを指摘する人もいた。NCAAルール適用のXリーグではあるが多少の違いもあった。ハードでタフなプレー、感情を露にする姿には逆風も吹いた。

「やっていることは同じアメフトでジャパニーズ・フットボールではない。変わらずにプレーしていても、日本人の視点で見るとワイルドと見られた。僕はヘルメットを投げたりラフプレーなどは絶対しない。でも良いプレーをして喜びを表現するセレブレイトをすることがある。自分の気持ちを自然に出しているだけだけど、良く見られないこともあった」

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「日本ではこれはダメなんだ」