明治五年五月には洋装が定められ、さらに軍服が定められる。明治天皇は、公式には洋装を身にまとう。私たちがよく見る御真影は軍服姿である。束帯黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)の姿ではない。

 この姿の天皇を人びとに示さなければ、大久保の構想は実現しない。明治五年五月、明治天皇は49日間に及ぶ大阪中国西国巡幸に出発する。実は洋装もこのために整えられた。こののち明治十八年までに、明治天皇は6回全国各地を回る。のちに六大巡幸と呼ばれた。明治天皇は全国の人びとに近代化を進める活動的な青年君主の姿を見せる。

 明治六年の政変後、政府の中心となった大久保は、産業化が強国への道と考えた。内務卿となって殖産興業を推進した。明治九年の巡幸のとき、大久保は随行し、産業施設、学校など、明治天皇が見るものを選定して事前に見分した。休憩所は、そして時には宿泊所も、地方のリーダーの家であった。列強に対峙するための施設を天皇が見て学ぶ必要があった。そしてそうした施設を天皇が見ることは、近代化に尽力している人びとの行動を賞賛することでもあった。

 また明治六年四月には、近衛兵の野営演習を行った。側に仕えたのは大将西郷隆盛である。演習の地は習志野と名付けられた。天皇は軍を率いる存在であることも示されていく。

 ところで、五箇条の御誓文の第一条は「広く会議を興し万機公論に決すべし」である。幕府が通商条約を結んだことに対し、朝廷は許可を与えなかった。条約反対の人びとは、朝廷こそが全国の議論を代表し、正しい議論を行うと捉えた。公議輿論(公衆の認める議論)の場である。

 それに対して幕府の決定は、幕府のためだけの利益を求める私議となる。幕末十年の間に、天皇の権威と公議は強く結びついた。王政復古宣言でも「至当之公議を竭し」政治を行うと宣言された。これまでは多数派工作のための会議論と評価されてきたが、朝廷が公議実現の場と期待されていた以上、新政府は公議を尊重しなければならず、公議は実現すべき理念であったと、現在は考えられている。天皇を中心とした国家建設ではあったが、公議の支持も必要であった。

 この点からも明治天皇は、人びとに姿を見せて、大久保が述べるような有り難い存在と思われなければならなかった。

◎監修・文
西川 誠/1962年、京都府生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専攻は日本近代政治史。現在、川村学園女子大学教授。著書に『明治天皇の大日本帝国』(講談社)、共著に『日本立憲政治の形成と変質』(吉川弘文館)など。