ところが、尊王攘夷の出発点であった水戸学の天皇像は異なっていた。将軍が天皇を敬って人心の統一を図り強国を目指すという考えであった。こうした考えを受け継いだ幕末の活動家(志士)は、天皇を中心とした列強に負けない国家建設を目標とした。天皇が政治を行い、やがては軍も率いることが目指された。日米修好通商条約問題で、孝明天皇は条約締結を許さないという政治的意思を明らかにし、政治的主体となった。そして攘夷を唱える以上、軍事力と無縁ではいられない。文久三年七月三十日、御所門外で軍事訓練が行われた。睦仁親王も孝明天皇の側で訓練を観覧している。

 先に述べた賀茂行幸も、攘夷という政治課題の実現を祈るためであった。ついで武神・石清水八幡宮への行幸となり、やがては神武天皇陵に祈り、攘夷の親征を宣言する大和行幸の企画となった。大和行幸は中止となったが、天皇は軍を率いる存在となることが目指されていた。

 王政復古の大号令を経て鳥羽伏見の戦いに勝利して新国家建設が始まったとき、大久保たちは天皇を中心とする国家を目指した。

 その天皇は、隠された文と雅の天皇ではなく、政(まつりごと)と軍(いくさ)の中心にいる天皇であった。公家と女官が占める京都御所から物理的に天皇を離すために、大阪遷都は企画された。とはいえ公家を中心に反対は大きい。とりあえず政庁(太政官代)が二条「城」に置かれて明治天皇は出勤することになる。

 大久保をはじめとする維新官僚は屈しない。九月、明治天皇は京都を出発し、人びとに姿を見せながら翌月江戸城(東京城)に入る。人びとに姿を見せ、政治と軍事を担う天皇の出発である。

◎監修・文
西川 誠/1962年、京都府生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専攻は日本近代政治史。現在、川村学園女子大学教授。著書に『明治天皇の大日本帝国』(講談社)、共著に『日本立憲政治の形成と変質』(吉川弘文館)など。