●定信が用いたイメージ戦略

 この危機を乗り切った定信の手腕を買われ、幕閣へ登用されたと言われている。「天明の大飢饉」は、田沼時代から定信時代への転換の引き金を引いた。

 さて、田沼のイメージが悪く、定信が清廉で凄腕の政治家として語られているのには訳がある。それは、定信が常にイメージ戦略を用い、周囲の人間に自分についての肯定的な記録物を書かせたり、瓦版を利用し自らの手腕を宣伝してきたからだ。また、養子で入った松平家内で古くからの家臣たちの信頼を得るため、松平家の直系の祖である松平定綱を祀るとして、伊勢桑名の長寿院から定綱像を取り寄せ、白河小峰城に御霊屋を建立、毎年祭礼を行なっている。加えて、陸奥国一宮である鹽竈神社へ毎年代参させ国の安泰を祈願しているが、この際に蝦夷や仙台藩の情報を集めていたともいう。逆に自分に有利な情報を広めていたとも。地域に密着していた寺社の僧や神職は、定信にとっての情報源でもあったのである。

●実際は田沼政治の延長か

 定信による寛政の改革は成功したような印象があるが、歴史上で見れば6年ほどで失脚している。定信が老中に就任した翌年には「ちいさい物ハ西丸下の雪隠と申候」(西丸下〔定信の屋敷場所〕の便所が小さいのは、尻の穴が小さいから=狭量だ)という風刺が出回っている。そしてなんと言っても有名な「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という狂歌に詠まれたように、20年ほど続いた田沼時代に比べるとすぐに各方面から非難が噴出していたことがわかる。

 ところで、近年の研究によれば、定信の政策の大事な部分は田沼時代を引き継いだものだったとも言われる。飢饉に加え、北方からの脅威などもある中で難しいかじ取りを迫られた時代ではあったが、きれいごととイメージ戦略だけでは乗り切れなかったのだろう。何しろ、裏で定信は幕閣への昇進のために田沼意次へワイロを渡していたのだから。

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