ヤクルトでの「野村再生工場」第1号は、プロ入りからの5年間で3度の2ケタ勝利をマークしながら、89年限りで日本ハム戦力外となった金沢次男になるだろう。ヤクルト移籍の時点で既に31歳だった金沢は、初年度の90年に自己最多を更新する37試合に登板し、6勝(7敗)、5セーブをマーク。サイドスロー転向後の92年は40試合(先発6試合)、翌93年は31試合(先発1試合)に登板し、チームが15年ぶりの日本一に輝いた93年の日本シリーズでは、3試合に投げて防御率0.96を記録している。

 91年には、西武を戦力外となった広瀬新太郎を獲得。野村監督と同じ京都府京丹後市生まれ、峰山高校出身の左腕は、かつてドラフト1位で入団した古巣・大洋(現在のDeNA)との試合で6年ぶりの白星を手にする。これが故郷の大先輩にとっての監督通算600勝目ということで、広瀬も大いに脚光を浴びた。

 その後も巨人のリリーフエースとして鳴らした角盈男、同じ巨人で左のエース格だった新浦壽夫、西武時代にベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)に輝いた金森栄治といった選手を獲得すると、適材適所で起用して92年から2年連続セ・リーグ優勝、そして93年は日本一。この頃から「再生工場」という言葉が、頻繁に用いられるようになる。

 その後も吉井理人(現ロッテコーチ)、辻発彦(現西武監督)といったベテランが野村監督の下で“再生”。広島で四番を打った小早川毅彦は戦力外通告を受けて97年にヤクルトに移籍すると、開幕戦で巨人のエース・斎藤雅樹から3打席連続ホームランを放つなど、最後のひと花を咲かせた。

 実績ある選手だけではない。ダイエー(現在のソフトバンク)時代は4年間で2勝止まりだった田畑一也(現社会人テイ・エス テックコーチ)は、ヤクルト移籍と共に2年連続2ケタ勝利と大ブレイク。戦力外ではなく交換トレードでの移籍だったが、田畑自身はのちに「投手がいないと言われていたダイエーからのトレードで、見返してやろうっていう気持ちしかなかった」と振り返っている。

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野村監督の退団後も続いた“選手再生”