映画「82年生まれ、キム・ジヨン」を見たんです。映画の中でお母さんの「かわいそうなジヨン……かわいそうでかわいそうでたまらない!!」という台詞があるんですが(そのままかどうかは分からないのだけれど)、その時に、自分でも驚くほど嗚咽が止まらなくなってしまったんです。映画館でときどき、怖いくらい号泣している人っているじゃないですか。私、あれになってしまって。映画館から駅までの道も号泣、柱によりかかって号泣。「かわいそう」という言葉に、これまでのたくさんの「かわいそう」が引き出されてしまったみたいになりました。かわいそう、かわいそう、かわいそう、かわいそうでたまらない。私はずっとそう思ってた、家の近所のお姉さんのこと、フィリピン人のお姉さんのこと、彼女たちだけじゃない、いろんな女性たちの顔が思い浮かんでしまったんです。

「かわいそう」という言葉を人に向けることの残酷さもある。おこがましいという気持ちもある。でも、「かわいそう」という感情以外なんだろう。かわいそうがわかる、かわいそうな私。かわいそうであることを隠してきた社会。彼女の話を聞きながら、わたしの中にも「かわいそうでたまらない」と叫びたくなるような衝動があることをはっきりと意識させられた。

「お待たせしました」とNetflixで宣伝されている「全裸監督」で描かれる村西とおる氏は、AVで本当の性交を描いた初めての人とされている。演技ではなく、リアルな性、生々しい人間の欲望、エロス、「正論」だけでは生きられない人間の重さをひきずり生きる女たちの肉体、まさに!それが!人間の性!生!性!生!、というような大したもの、な感じでAVが描かれている。
 
 いいかげんにしてほしいと思う。そういう男たちの「新しいビジネス」「新しい表現」「新しい性産業」に食い物にされてきた側の声、「過去」におびえる女性たちを踏みにじるように表現されるAV礼賛物語が、2021年につくられることが、「かわいそう」な日本の女性のおかれている現実なのではないだろうか。

 今の日本、80年代の日本の性文化と比べて、どのくらい変わっただろう。

 先日、こういう話を聞いた。

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ステージママが娘の夢をつぶすんですよ?