四日、早朝から旧幕府軍と新政府軍との戦闘が再開されるが、結局、旧幕府軍は新政府軍に押され、淀まで退却を余儀なくされてしまう。そのころ、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦の御旗と節刀を与えていた。これにより新政府軍が官軍となり、逆に旧幕府軍が賊軍となってしまったのである。

 五日になると、早くも新政府軍の陣営に朝廷の錦旗が翻った。これを機に、それまで日和見していた諸藩も、新政府軍につく。このため、淀城で態勢を立て直そうとした旧幕府軍は、新政府についた淀藩に入城を拒絶され、大坂城に退却するしかなかった。

 このとき、大坂城にいた慶喜は、松平容保・松平定敬らとともに大坂湾に停泊させていた軍艦の開陽丸で江戸に退却。これは、ただ単に新政府軍との戦いを避けようとしたわけではあるまい。難攻不落と謳われた大坂城に籠城すれば、新政府軍の攻撃も凌げたはずである。

 しかし、慶喜は勤王を旨とする徳川斉昭の子であった。官軍となった新政府との衝突を避けるしかなかったのであろう。慶喜の退避にともない、大坂城内にいた旧幕府軍も、七日と八日の2日間で、江戸か、それぞれの本国に帰還した。

 鳥羽・伏見の戦い後、新政府は、慶喜追討令を出した。その慶喜が大坂城を脱出して江戸城に戻ったことにより、新政府は、江戸を攻撃するために東征大総督府を設置し、制圧に乗り出す。こうした状況の中で、二月十二日、慶喜は、田安徳川家の当主・徳川慶頼と津山藩主・松平慶倫の父・松平斉民に江戸城を預けると、自らは上野の寛永寺の大慈院に移り謹慎した。慶喜自身は、新政府軍に抵抗しない姿勢をみせたのである。

 四月十一日、江戸城は新政府に接収され、寛永寺に謹慎していた慶喜は、実家を頼って水戸に去った。慶喜は、責任をすべて負うつもりであったようである。自らの子ではなく、徳川慶頼の子・亀之助に徳川宗家の家督を継がせた。これがのちの徳川家達である。家達は新政府により駿府70万石に転封となり、駿府改め静岡藩知事となった。

 慶喜も静岡に移り住むが、明治三十年(1897)、江戸改め東京に戻っている。その後は貴族院議員にも選ばれるなど東京で余生を送り、大正二年(1913)、波瀾の生涯に幕を閉じた。享年77。

◎監修・文
小和田 泰経/1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『兵法』、『戦国合戦史事典存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社)、『信長戦国歴史検定<公式問題集>』(学研パブリッシング)など。

※週刊朝日ムック『歴史道 vol. 14』から抜粋