もちろん、判官びいきの恩恵を受けられれば、新しい地図やのんのように助かる人もいるのだが、その逆の立場になった人には容赦がない。活動自粛や作品の封印となれば当然、ファンは悲しむし、他の芸能人も迷惑をこうむることになる。スキャンダルの内容にもよるとはいえ、そのあたりへの配慮というか、想像をもうちょっと働かせてもよいのではということも感じたりする。

  たとえば、最近、筆者は「オトナンサー」に執筆した「広瀬すず、杉咲花らが巣立った伝説ドラマ『学校のカイダン』」を語り継ぎたい!」という記事のなかで、伊藤健太郎に言及した。このドラマのメインキャストのひとりだったことに触れ「昨年10月、交通事故に伴う不祥事を起こしてしまったものの不起訴処分が決定。SNSで謝罪も行い、活動再開が期待されています」と書いただけだが、多くのファンから感謝の反響が寄せられ、その切実な思いに改めて気づかされたものだ。

 ネットがなかった時代は、大衆が知る情報は今より限られ、その気分を反映させる場も今ほど大きくはなかった。そのぶん、業界やメディアの望む流れになりやすく、今ならもっと同情を受けられそうな人が泣き寝入りするようなケースも多かったかもしれない。

 ただ、特殊な例ではあるが、一種の自浄作用が働くこともある。1979年のTBSプロデューサー・久世光彦の不倫をめぐる樹木希林の告発がそれだ。

 ドラマ「ムー一族」の打ち上げで、彼女は久世と21歳の女優・のぐちともこが不倫関係にあり、もうすぐ子供が生まれることを公表。のぐちはこのドラマにも出演中だった。久世はのちに妻と離婚して、のぐちと再婚するが、この時点ではテレビ界の大物と新進女優とのあいだに成立した「枕営業」のような見方もされたものだ。

 しかし、樹木は久世を断罪するために告発したのではない。「久世さんがああした状況の中でなし崩しにショボショボしていくのが耐えられなかった」「ふたりの気持ちを軽くしてやろうと思った」(日刊ゲンダイDEGITAL)というのが真の狙いだった。

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当事者に任せるほうがいい場合もある