一方、父である家康は、秀忠をどのように見ていたのだろうか。次のような逸話が残されている(「台徳院殿御実紀」)。

 ある時家康は、本多正信を召して次のように言った。「秀忠はあまりにも律義にすぎる。人は律義だけではいけない」。

 そこで、正信は秀忠にこのことを伝え、「殿も時には嘘をおっしゃったらよいのです」と申し上げた。すると、秀忠は笑って、「父君の御空言は、いくらでも買う者がいる。私は、何事もなしとげたことがないので、嘘をついても買う者がない」と述べたとのこと。

 家康のように、時にはハッタリをきかすような大胆なふるまいをすることは自分には不向きだ、というのだろう。謹厳実直な姿は、時代劇などに描かれる秀忠のイメージそのものである。

 そんな秀忠は、慶長十年(1605)に二代将軍となる。しかし、同十二年に駿府に移った家康が、相変わらず大きな権力を持ち続けた。秀忠には本多正信が付属し、家康側には、正信の子・正純がおり、秀忠に家康の方針が本多父子を通して伝えられ、それを将軍として秀忠が実行するという、二元政治というより家康の大御所政治が行われたのである。

 つまり、家康が元和二年(1616)に亡くなるまでに起こった大坂の陣や、武家諸法度、禁中并公家中諸法度の制定などは、家康が深く関わっていた。

 ちなみに秀忠から家光の代替わりも、同様であった。三代家光が将軍宣下を受けるのが、元和九年(1623)七月二十七日のこと。しかし、その後も秀忠は大御所として実権を握り続け、事実上の代替わりは、寛永九年(1632)正月二十四日に秀忠が亡くなった時である。家康は大御所時代に駿府に居たが、秀忠の場合は江戸城西丸だった。大御所として将軍に及ぼす影響力は、家康大御所時代よりも勝っていたともいえるだろう。まだ戦国の雰囲気が色濃く残る時代、その代替わりに慎重を極めたゆえの方策だったと考えられる。

◎監修・文
福留真紀/1973年東京都生まれ。東京女子大学文理学部卒業。お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了。博士(人文科学)。長崎大学准教授などを経て、東京工業大学准教授。著書に『名門譜代大名・酒井忠挙の奮闘』(文藝春秋)、『名門水野家の復活』(新潮社)など

※週刊朝日ムック『歴史道 vol. 14』から抜粋