徳川秀忠の再建開始から400年を迎えた大阪城(c)朝日新聞社
徳川秀忠の再建開始から400年を迎えた大阪城(c)朝日新聞社

 150年におよぶ戦乱の世に終止符を打ち、慶長8年(1603)、幕府を開いた徳川家康。そして、父・家康がつけた道筋を愚直なまでに継承した二代・秀忠。武断政治を進め幕府の支配をさらに強化した三代・家光。週刊朝日ムック『歴史道 vol. 14』では、「徳川300年の泰平」と謳われた時代の礎はいかにして築かれたのかを特集。ここでは「秀忠」を解き明かす。

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 秀忠は天正七年(1579)四月七日、家康の三男として生まれた。

 同年九月十五日に、長男信康が切腹することになるが、同二年生まれの次男秀康は跡継ぎにならなかった。その背景には、秀康の母お万( 小督局)が、正室築山殿に幼少の頃から侍女として仕えていた人物だったことがある。築山殿の不興を避けるため、重臣の本多忠勝を頼り、城外で出産したことから、家康とは後になってから対面することになった。このような事情から、秀忠が生まれながらに家康の後継者と位置付けられたのである。

 同十七年に秀吉が諸大名に妻子上洛令を出した際、家康は、秀忠を上洛させることにする。小牧・長久手の戦いの後、次男秀康を秀吉の養子としていたものの、次女督姫を、同十一年に秀吉と敵対する北条氏直に嫁がせていたこともあり、家康は、嫡子の秀忠を上洛させ、秀吉への服属姿勢を示さなければならなかったのだ。秀吉は秀忠の上洛を喜び、徳川家の正当な跡継ぎと認め、秀吉の養女小姫(織田信雄の娘)と縁組させた。ただし小田原攻めの後、家康に関東が、織田信雄にそれまでの家康の領地が与えられた際に、信雄が固辞し隠居に追い込まれたため、小姫とは破談となった。

 その後、文禄二年(1593)に、側室・淀殿との間に秀頼が誕生し、秀吉は豊臣家の安泰のため、より力を尽くすようになる。同四年には、甥の関白秀次を自害させ、諸大名からは秀頼を中心として補佐するように起請文を取り、「御掟」「御掟追加」を発布した。そして今度は、淀殿の妹お江を秀忠に嫁がせたのである。

 つまり秀忠は、秀吉にとって、徳川家対策のキーパーソンだったのである。

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父・家康は秀忠をどう見ていたのか