どちらも魅力的な世界だが、チーム感が希薄なことは孤独なイメージにもつながる。とはいえ、この時期の明菜はまだそれほど孤独ではなかった。「飾りじゃないのよ涙は」がリリースされる直前のコンサートで、彼女は「ケジメなさい」(近藤真彦)の決めポーズをまねてみせたりしている。すでに熱愛が報じられていたから、ファンサービスも兼ねたノロケだったのだろう。

 ちなみに「山口百恵は菩薩である」で知られる評論家・平岡正明は、明菜のことも気に入り「飾りじゃないのよ涙は」を最良のものとして評価していた。そして「実存のかたち」とか「白雪姫が目をさます回路」といった言葉を使いつつ、

「明菜が開花するのは恋だろう」(「国際艶歌主義」)

 とも書いている。実際、彼女の全盛期はマッチとの熱愛期間と重なっていた。この翌年「ミ・アモーレ」で、さらに次の年「DESIRE -情熱-」で2年連続、日本レコード大賞を受賞。そのまた次の年にマッチが「愚か者」でレコ大を受賞すると、自分のことのように喜んだ。しかし、89年の自殺未遂騒動と翌年の破局を機に、失速していくのは周知の通りだ。

 さて、今回は2本の記事に分けて、明菜のデビューからブレーク、絶頂へという流れについてまとめてみた。前編(【デビュー40年目】中森明菜がひょうきんキャラから「不機嫌な歌姫」に変わるまで)では、彼女がデビュー前、百恵の「夢先案内人」だったり、ユーミンの書く詞だったりを好んでいたことを紹介。「少女A」が大当たりしたことで、歌手としてのキャラが百恵のツッパリ路線を期待されるようなものに変わったことを書いた。

 ではもし「少女A」の大当たりがなかったら、どうなっていただろう。あるいは、デビュー曲「スローモーション」のような百恵の叙情路線を継承して、ときにはユーミンをカバーするようなアイドルになっていたかもしれない。

 ふと思い浮かぶのは、石川ひとみ。1978年にデビューして、実力を評価されながらくすぶり、ユーミン作品の「まちぶせ」でようやく大ヒットに巡り合う苦労人だ。

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大好きな歌を思う存分うたう姿がみたい