もしも、人に迷惑を掛けるような行為を知らないうちにやっているとすれば、それはやはり、反省してそういうことをしないようにしないといけないと思います。

 たとえば、それは「国」というレベルでも同じことが言えます。

 日本は、石炭に依存する発電で、先進諸国のうち、二酸化炭素排出量が多い国だと何度も指摘されてきました。環境汚染大国です。世界各国から繰り返しそうした汚名を着せられているにもかかわらず、それを無視してこれまでと同じことを続けていたらどうでしょう。

「パリ協定」など、全世界で取り組まなければならない環境問題などに後れを取ってしまうと、国の尊厳が傷つくのみならず経済も立ちゆかなくなってしまうのです。

 そう考えると、自分の普段の行いを自省すると同時に、人に聞いてみるということも大切なのではないかと思います。

 孔子は、自分が正しいと思っていることでも、「これはどうすればいいでしょうか」と人に聞いています。とくに大きな決断をしないといけない時には、必ず周りの人に聞いたのでした。

「子、大廟に入りて、事ごとに問う」(八イツ第三)と、『論語』には記されています。

 これに対して、孔子の急激な出世をそねむ人間であったと思われる「或るひと」は、孔子をバカにします。

「或るひと曰わく、孰か、鄒人の子を、礼を知ると謂うや(いったい誰があの鄒人の子を礼に達した人だと褒めるのか、あの男はまるで何も知らないようじゃないか)」

 孔子の名前を口にするのをはばかって「鄒人の子」と呼んでいるのですが、事ごとに質問をする孔子を、揶揄するのです。

 しかし、孔子は、この言葉を聞いて「是れ礼なり(それこそが礼なのだ)」と言います。

 自分が行おうとすることが、正しいのか間違っているのか、それを人にたずねることこそが礼儀をわきまえることだと言うのです。

 

 話を環境問題に戻しますと、環境国際会議が開かれるのは、こうしてそれぞれの国が力を合わせて社会をよりよいものにするためです。国家間の協調と明るい未来への模索は、つまるところ、一人ひとりの行動と無関係ではありません。

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