ロッテの本拠地は(狭い)川崎球場だったので、やはり慎重にはなった。でも落合さんとプロで対戦した最初の頃は、内角をあまり打てなかった印象がある。僕もシュート系が武器だったので、そこまで打たれなかった。長打に対して細心の注意を払いながら、思い切って内角を攻めた。タイミングが合わず詰まってくれた記憶もある」

 新人の79年こそ一軍での対戦はなかったが、80年は9打数無安打、4奪三振と落合を圧倒。松沼はこの年12勝7敗1セーブの好成績を残し、ここから5年連続2ケタ勝利を挙げるなど西武投手陣の中核を担うようになった。しかし翌81年は17打数6安打2本塁打、82年は11打数5安打2本塁打と、打ち込まれるようになった。

「3冠王を獲得した前後くらいから、内角を待たれて本塁打されるようになった。自信を持っているシュート系が少しでも甘かったら、確実に捉えられた。内角はあらかじめ待っていてレフトへ打つ。強気に攻められなくなり、外角に行くとライトへ上手く打つ。しかもライト方向への本塁打もある。投げる場所がなくなってしまった」

 落合が内角を確実に打つようになった。当然、シュート系が武器の投手は強気に攻められなくなった。攻め方を変えて外角に行くとライトへ本塁打となり、投げる場所がなくなってしまう。82年、松沼は11勝を挙げ、西武初優勝に大きく貢献した。しかし『天敵』と言えるほど打たれた落合は、同年に3冠王を獲得している。

「内角が投げられなくなって、外側に投げて打たれた。ただ『落合さんとは勝負を避けて、他の打者を抑えろ』という指示が出ていた(82年6四死球)。そういう戦い方が徹底できたから、チームも上に行けた。当時のロッテはそこまで強豪ではなかったから、落合さんだけを避ければなんとかなる。それだけ特別な存在だった」

「対決した人は分かるけど、バットの出がものすごく遅い。捕手のミットに球が入る寸前になってバットが出て来て、ライト方面にうまく打つ。『見逃す』と思ったら、いきなりバットが出現する。また打った瞬間は打ち損じのポップフライに感じるが、振り返ると球がどんどん小さくなってスタンドインというのが多かった。飛ばす能力があった。川崎とか、(広いと言われた)西武とか、球場は関係なかった」

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ブーマーの凄さは?