この記事からは、まるでメディア、あるいは大人に対して、心を閉ざしかけているような印象も受ける。

 その背景には、ブレークでますます多忙になったことに加え「少女A」のおかげで不良っぽいイメージが生まれ、あることないこと騒がれるようになったことが関係していたのだろう。

 最近も「うっせぇわ」をヒットさせた女子高生歌手・Adoの正体や素顔をめぐってさまざまな詮索が行われたが、このときの明菜をめぐる過熱ぶりはそれ以上だった。なにせ、聖子の対抗馬、かつ、待望久しい百恵の後継者と目される逸材が出現したのだ。

 ではいかにして、彼女はこの曲と出会ったのか。そこには、ある新進作詞家の登場が関係していた。前年、コピーライターから作詞家に転向して、この曲で認められ、80年代を代表する作り手のひとりとなっていく売野雅勇(うりの・まさお)だ。

 彼は2年後、こんな発言をしている。

「特に不良性の高い子という風評も、あの時点では全くなかったものだ。(略)『少女A』の詞は、中森明菜本人がモデルだったのではないかという、いつも受ける質問に対して。絶対にそうではない。事実、ぼくは彼女の私生活なんか全く知らない。推測するに、彼女はきっと、とてもナイーブな女性だ。ぼくが『少女A』という詞を書いてしまったことを、恨んでいるかもしれない」(「プールサイドに3Bとステドラーをくれ 売野雅勇の世界」田中良明)

 実際、明菜は当初、この曲を歌うことすら嫌がったという。所属レコード会社(ワーナー・パイオニア)でプロモートを担当していた富岡信夫によれば、

「明菜自身が『少女A』の“A”を自分のことだと勘違いしていたんです。それで詞の内容を含め、最初から『イヤだ!』『絶対に歌いたくない!』と言い張っていたんです。確かに10代の明菜にとっては強烈的な詞でしたから、余計にそう思ったのかもしれませんね」(zakzak:夕刊フジ)

 スタジオでは、周囲が時間をかけてなだめ、どうにか録音にこぎつけた。セカンドシングルにするという決定についても、レコード会社の宣伝を統括する実力者の判断だと聞いて納得。ただ、富岡いわく「ジャケットの…あの、どこかにらみつけているような表情も気に入っていなかったようでした」ということで、不良イメージでの売られ方自体、不本意だったのだろう。

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作詞家にはふて腐れて、目も合わせなかった