実はそこには、笑いを生業とする者として譲れない一線がある。しかし、それは、構造的に芸人以外の立場からは見えない部分でもあるため、理解されにくい。そこにこの問題の本当の複雑さがある。

 番組の中で、松本は芸人にとってのネタをボクシングにたとえていた。ネタの内容に外部の人間が文句を言うのは、ボクシングの試合に割って入って「殴り合いをやめろよ」と言うようなものである、と。このたとえは的を射ている。

 ただ、ボクシングとお笑いには1つの決定的な違いがある。それは、一定のルールのもとに行われているということが、外からはっきりと見えているかどうかだ。

 スポーツとしてのボクシングには厳格なルールが定められている。リングという舞台装置があり、レフェリーという審判員がいて、ボクサーは規定通りのグローブを手にはめた状態で殴り合う。

 それが単なる喧嘩とは違うルールの決まったスポーツであることは、その形式に公然と示されている。ボクシングの試合に熱中する人はいても、それが本物の殴り合いの喧嘩であると誤解する人はいない。

 だが、お笑いでは、構造的にそのことが見えにくくなっている。いや、むしろ、芸人たちはそれが世間に見えないようにしている。見えないようにすることが、芸人の職務のうちに含まれているのだ。

 それは、マジックのトリックがばれないようにすることが、マジシャンの職務のうちに含まれているのと同じことだ。ただ、マジックの場合、そこにタネがあること自体は、分別のついた大人であれば誰でも知っている。

 しかし、お笑いの場合、大の大人ですら、それが一種のフィクションであることをきちんと認識していないことが多い。

 たしかに、漫才を見ていて漫才師が即興でしゃべっていると思う人はいないだろうし、医者と患者のコントを見ていて彼らが本物の医者と患者であると思う人はいないかもしれない。

 しかし、テレビのバラエティ番組を見ていて、芸人たちがそこで本当に思ったことを話していると感じてしまう人は多い。もちろん、そこに本心が含まれている場合もあるのだが、それはあくまでもテレビというメディアを通して提供されているものだ。そこには何重にもフィルターがかかっている。芸人の言動はテレビ番組という商品の一部である。

 芸人はテレビに出れば本当に思っているように話すし、何かを真剣にやっているように振る舞う。それが人を笑わせたり楽しませたりすることにつながる限りにおいて、彼らはそれを徹底する。そして、実はそうであるということ自体は、本来は視聴者には知られない方がいいし、知るべきでもない。

「お笑いはサーカスのようなものだ」という兼近の意見は半分正しい。しかし、半分は不正確だと思うのは、サーカスのようなものであると規定された瞬間、お笑いの面白さの何割かは失われてしまうということだ。

 作り物であると頭ではわかっていても、何割かの人間が思わず誤解してしまうようなリアルなもの。そのぐらい真に迫ったものであるからこそ、上質なお笑いは人の心を揺さぶり、大きな笑いを引き起こす。そこに現代的なお笑いの価値がある。

 お笑いはよくできたフィクションである。しかし、プロの芸人はそれを否定するだろうし、否定すべきでもある。また、観客の側もそれを理解しないで楽しむべきである。ここが実に難しい。

 この手の議論が「難しい」ということの本質は、バラエティ番組におけるお笑いというものが元来そのような構造をしているからだ。「タネがあるかどうかわからないマジック」は魔法と区別がつかない。お笑い文化がこれからも魔術性を保つためには、どうしても譲れない一線が存在するのである。(お笑い評論家・ラリー遠田)

著者プロフィールを見る
ラリー遠田

ラリー遠田

ラリー遠田(らりー・とおだ)/作家・お笑い評論家。お笑いやテレビに関する評論、執筆、イベント企画などを手掛ける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』 (イースト新書)など著書多数。近著は『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)。http://owa-writer.com/

ラリー遠田の記事一覧はこちら