例えばこの女の子は、性被害がはじまってから少したったころ、父親のひざに自ら乗って写真を撮っている。「たたかれたときやわいせつ行為をされたとき以外のお父さんは大好きだった」と言っていることをもって、裁判官は女の子の証言は不自然と考える。

 この裁判官は、この数年、眠っていたのだろうか。性暴力事件について、性暴力被害者について、そして今、性犯罪刑法改正検討会で語られていることを少しでも関心を持って読んだことはあるのだろうか。

 証言や証拠は慎重に検討されるべきことは言うまでもないが、それにしてもこれは2019年3月に連続しておきた4件の性暴力無罪判決(一審で無罪確定したもの以外、全て高裁で逆転有罪になっている)に並ぶ、裁判官のジェンダーバイアス、性暴力に関する無知によって引き出されてしまった判決ではないか。なぜなら、この裁判官が「不自然」とする根拠が全て、性被害者にとってはあまりにもリアルな行動だからだ。

 性被害者は、何が起きたかを言語化することが非常に難しい。そして被害を受けたにもかかわらず、自分自身を責め、羞恥を感じ、周りに伝えることが難しい。子どもであればなおのこと、日時の特定は難しいといわれる。性被害は決して大きな怒声のもとで行われるのではなく、むしろ優しい口調でなだめられ、まるで自分も共犯者のように秘密を強いられることに混乱し、何が起きたかが分からないことが多い。

 だから、女の子が最初の被害の日時を覚えていないのは、それが強烈な経験だからこそ忘れたく、既に1年半以上前のことであり、しかもその間継続して被害が続いてきたからだ。覚えていないほうが自然だ。

 女の子が最初に性被害ではなく体罰の話をしたのは、体罰で羞恥を感じることはないからだ。「他には?」と信用できる大人に促され、ようやく口を開くのは、あまりにも自然だ。

 女の子が被害を具体的に語れなかったのは、本当に自然なことだ。それは語るにはあまりにも苦痛なことであり、自分の身に起きたこととして言語化するに時間がかかるのは、自然すぎるほどに自然なことだ。語るにはあまりにも苦痛なことだからだ。

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加害者目線で「こうあるべきだ」 レイプ神話とは