西武の主砲・清原和博が巨人FA移籍した96年オフ、“清原2世”として背番号3を託されたのが、玉野宏昌だ。

 神戸弘陵高時代は、2年夏の県大会準Vが最高成績だったが、「スケールの大きい選手と聞いている」(東尾修監督)と将来性を買われ、ドラフト1位で指名された。

 実は、同年の西武は当初、入来祐作(本田技研)が1位候補。巨人との争奪戦に敗れ、玉野に切り替えたのだが、話題づくりとはいえ、まだ海の物とも山の物ともつかない高校生にいきなり清原の3番を受け継がせるのは、やはり酷だった。

 入団発表の席で「(背番号の)数字に恥じないよう、走攻守の揃った選手を目指す」と抱負を語った玉野も「僕には重かったです」が本音だった。

 最初の2年間は2軍暮らし。99年に1軍初昇格をはたすも、わずか6試合出場に終わった。たとえ実力が伴わなくても、ファンはどうしても1年目に31本塁打をマークした清原と比較するから、結果を出せない玉野に情け容赦なく罵声を浴びせる者もいた。

 だが、翌00年に3番を新外国人のトニー・フェルナンデスに譲り、33番に変更したことが転機となる。

 同年は巨人・長嶋茂雄監督も33番から3番に変更。玉野は“逆長嶋”として話題になるが、3番のプレッシャーから解放されたことが好結果につながる。

 4月6日のロッテ戦、4対0とリードの2回1死、玉野は薮田安彦から左越えに待望のプロ1号を放つ。「コンパクトに振れました。本塁打だったのでうれしい。(試合後も)まだ舞い上がっています」と4年目の初アーチに喜びを爆発させた。

 同年はキャリアハイの69試合に出場し、打率.209、2本塁打。翌01年も2本塁打を記録したが、その後は故障や不安定な守備などから出番が減り、05年の中日を最後に現役引退した。

 現在はソニー生命保険に勤務。かつての清原2世として取材を受けることもあり、背番号3とのご縁に感謝しているという。

 松井秀喜のメジャー移籍後、巨人の準永久欠番扱いとなっていた55番を受け継いだのが、08年のドラフト1位・大田泰示だ。

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松井の背番号を継いだのは…