授業の大切さや予習復習の重要性を説いた内容である。教える側も旧制一中から教壇に立っているベテラン、大学入試に精通した受験指導のプロ、学問分野をきわめた教養人などがいた。70~90年代、受験の英語で一世を風靡した『試験に出る英単語』の著者、森一郎氏はその代表格であろう。

 もっとも、他校の進路指導教諭にとっては、日比谷は各地域の中学の1、2番が集まっているから、こういうスタイルの授業でも東京大受験に対応できるのであって、どの高校にも通用するわけではない、と冷ややかに受け止めていた。

 なお、「超学年制」とは、私立中高一貫校に見られる、高校2年修了時に3年までの課程を修了させることである。当時、東京大合格者数を増やしていた「超学年制」の灘高校を暗に批判しているともとれる。

 日比谷高校の64年東京大合格者193人は、のちの開成高校の98年205人、92年201人、2012年203人に次ぐ多さである。

 だが、その現浪別でみると、現役71人(36.8%)、浪人122人(63.2%)となっている。これほど浪人が多いと、現役志向が強い昨今の風潮からすると評価がむずかしいところだ。ちなみに灘高校の東京大合格者は56人(9位)、うち現役は41人で73.2%にのぼっていた。「超学年制」のメリットが生かされたのだろう。

 日比谷の浪人生の多くは駿台高等予備校(現・駿台予備学校)あるいは日比谷高校補習科に通っていた。

 補習科とは当時、五つの都立高校に設置されていた浪人生向けの講習会である。予備校的な役割を果たしていた。河合塾の前理事長、河合弘登氏は1965年に日比谷高校を卒業後、同校の補習科に通っていた。こうふり返っている。

「東大受験に落ちた私は、補習科に入る試験を受けると同時に、駿台予備学校の入学試験も受けました。なぜ河合塾ではなく駿台だったかというと、そのころ河合塾はまだ東京に進出していなかったからです。両方合格したので、日比谷高校の補習科に行くことにしました。同じく東大受験に失敗した仲間もみんなそうしたからです。

 でも、補習科は、高校時代と教室も同じ、教える先生も同じ、周りも同じ顔ぶれ。何もかも高校時代と変わらないため、気持ちがうまく切り替わらず、結局、2度目の東大受験にも失敗。結果、併願していた慶応義塾大学経済学部に進むことにしました。あの時、補習科ではなく駿台を選んでいたら、東大に受かっていたかもしれないと後から思うことがよくあります(笑)」(NIKKEI STYLE「出世ナビ」2018 年2月12日)

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