■他人に“だまされる”善逸

 お人よしでお調子者の善逸は、よく他人にだまされ、そのことを自分でも自覚している。「雷の呼吸」の師・桑島慈悟郎(くわじま・じごろう)のもとに身を寄せたのも、善逸が女にだまされ、借金まみれになったところを、桑島に救われたからだ。繰り返し、ひどい目にあっても、善逸は人を信じることをやめようとしない。

 不思議なことに、善逸には、他人の「うそ」を見破る方法があった。彼は常人にはない「耳のよさ」をもっており、耳をすますと、通常では聞こえないような小さな音、生き物の心音、呼吸音など、さまざまな「音」を聞き分けることができた。善逸はこの「音」によって、人間の思考、感情を読み取ることもできるのだ。それなのに、なぜ善逸は”だまされる”のか?

■善逸の“信じる”行為の意味

<俺は自分が 信じたいと思う人を いつも信じた>(我妻善逸/4巻・第26話「素手喧嘩」)

 このセリフは、善逸の名セリフとして、読者たちの記憶にも強く残っている言葉だ。善逸が「信じたい」と思うものは、「人」そのものであり、その「言葉」が真実であるかどうかは、彼にとっては問題ではない。

 その例をひとつあげよう。主人公の竈門炭治郎(かまど・たんじろう)が、鬼化してしまった妹・禰豆子(ねずこ)の存在を隠している時に、善逸は炭治郎が鬼を連れていることにすぐに気づく。しかし、気づきながらも、善逸は炭治郎を「信じる」ことにした。人間の捕食者である「鬼」の存在を許容することは、鬼殺隊では許されない。ましてや、彼は元鳴柱・桑島の弟子で、「雷の呼吸」の継承者だ。彼の不祥事は、そのまま大恩ある桑島の不名誉になる。

<鬼殺隊でありながら 鬼を連れてる炭治郎 でも そこには必ず事情があるはずだ それは 俺が納得できる事情だって信じてる>(我妻善逸/4巻・第26話「素手喧嘩」)

 相手の「事情」が善逸にとっての判断基準になる。それは、相手の行動の「善悪」、相手の言動の「真偽」に一切目をつむるということを意味する。善逸の「信じる」行為は、自分の損得を捨てて、心を相手にささげることだった。

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親に見捨てられた善逸の「孤独」