彼らと比べ、欧州での知名度がさらに上なのが、パウロ・フットレだ。17歳でポルトガル代表入りした秀英アタッカー。FCポルト(ポルトガル)時代にチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)優勝を果たし、1987年のバロンドール投票ではルート・フリットに次ぐ2位。高いテクニックと鋭いドリブルを武器に「欧州のマラドーナ」と称され、アトレティコ・マドリード(スペイン)のエースとしても長らく活躍した。

 スペインの至宝・ラウールの少年時代のアイドルでもあった男が来日したのが1998年。32歳で横浜フリューゲルスに入団したが、20代後半から相次ぐ故障に悩まされていたこともあって、全盛期からは程遠いプレーぶりとなった。リーグ戦で出場13試合3得点で1年のみの在籍で退団となり、そのまま現役引退。チームが低迷したこともあり、その世界的名声に相反して、日本ではほぼ話題にならなかった。

 南米で抜群の知名度、高い名声を得ていたのが、チキアルセだ。精度の高い右足と豊富なスタミナを持ち、ブラジルの名門グレミオやパルメイラスで活躍し、リベルタドーレスカップ優勝を2度経験。パラグアイ代表としても不動の存在で、1998年フランスW杯、2002年日韓W杯に連続出場し、直接FKも決めた。

 当時、カフーと並んで南米最高の右サイドバックと評された男が来日したのは2003年。西野朗体制2年目のガンバ大阪に加入したが、開幕戦でゴールした以外はノーインパクト。日本のサッカー、生活に馴染めずに16試合出場1得点で退団した。チームがファーストステージ14位、セカンドステージ7位と低迷したこともあり、チキアルセに対する記憶も非常に薄いものになった。

 さらに「実は大物」と言えた代表的な一人が、ビチュヘだろう。左利きのオランダ人MF。アヤックス(オランダ)で背番号8を付けて活躍した後に、クライフ監督時代のバルセロナ(スペイン)に加入して3シーズン在籍。オランダ代表としても1990年のイタリアW杯、1996年の欧州選手権に出場した天才肌のテクニシャンだった。その彼が2004年、大分トリニータに加入。自慢の金髪長髪をなびかせてピッチに立ったが、出場9試合で無得点と活躍できずにチームも年間14位(16チーム中)と低迷。半年間の在籍のみで、爪痕を残すことなく日本を後にした。

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他にも話題にならなかった“大物”