「ごねて利益をもらう」ために声を上げているのではないからだ。県民は仲井眞氏ではなく、辺野古移設反対派の翁長雄志氏を選んだ。

 当選後、官邸は翁長知事からの会談の求めを一切、無視した。「こんな子どもっぽい嫌がらせを知事にもするのか」と驚いたので、今でもよく覚えている。ようやく、那覇市内のホテルで会談が実現したのは15年4月のことだ。結局、この会談でも菅氏は、普天間飛行場の危険性の除去を重要課題に挙げ、「辺野古移設を断念することは普天間の固定化にもつながる」「辺野古移設というのは唯一の解決策」と従来の政府見解を繰り返した。

 15年9月の集中協議で、沖縄の歴史を説明した翁長氏は菅氏に「私の話は通じませんか」と問うた。菅氏の口から出たのは「私は、戦後生まれなので、沖縄の歴史を持ち出されたら困りますよ」という言葉だった。担当になって1年もたつのに、沖縄の歴史を知ろうとすらしない。「お互い別の70年を生きてきたような気がする」と返した翁長氏の絶望感はいかばかりだったろう。

 その翁長氏の逝去に伴う18年9月の知事選では、東京からも自民・公明両党(維新、希望も推薦)が組織的に沖縄に支援者を送り込んだ。結果は、辺野古基地反対を掲げる玉城デニー氏が、佐喜真淳氏を8万票の大差で破り圧勝だった。だが、「選挙は民意だ」と発言していた菅氏は会見で「選挙は様々なことが争点になる」と前言を翻し、民意が示された後も辺野古ありきの方針を全く変えなかった。

 政府による民意の黙殺。県民の怒りは9万3千筆の署名につながった。県民投票の実施が決まったが、直後から宮古島市など5市の市長が投票への不参加を表明する。県民の3割が民意を示せないという状況に対し、「『辺野古』県民投票の会」を立ち上げた大学院生の元山仁士郎氏が思い立ったのがハンガーストライキだった。

 一人の若者が一票の権利を獲得するために抗議のハンストをする。果たして日本は民主国家といえるのか。19年1月、私は官房長官会見で菅氏に直接尋ねた。「若者がハンストで抗議の意を示さざるを得なくなっている。この状況について、政府の認識をお聞かせください」

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