そこに、東日本大震災が起こる。私は東京のあしながレインボーハウスでテレビに映し出される津波の映像に目が釘付けになった。グリーフケア研究会が計画していた3月のつどいは中止。以後の支援活動は、本書冒頭で山下高文が綴つづった経過をたどることとなるが、できるだけ速い対応が求められたことから、7月には仙台でのワンデイプログラムをグリーフケア研究会と共同で再開すると同時に、東京のレインボーハウスの「小中学生のつどい」にも津波遺児たちを招くことにした。

 そして2014年3月に宮城県の仙台市と石巻市に、6月に岩手県陸前高田市にレインボーハウスを建設し、ケア活動を本格化する。私は2015年に初代所長の林田吉司から後を引き継いだ。

 東日本大震災津波遺児の体験は、阪神・淡路大震災遺児とはさらに違う、言葉に尽くせないものだった。自らも津波にのみ込まれて助かった子どもがいた。一緒に逃げたのに、振り返るとその人はいない。親が発見されるまでに数週間を要した子ども、親の亡骸が見つからないまま10年を迎えようとする子どももいる。震災当時、お母さんのお腹の中にいた子は、2021年4月で小学4年生になる。震災後に、生活や仕事に様々な影響を受けて病死や自死した「震災関連死」とみなされたケースもあった。東日本大震災で2083人が親をなくしたが、本当に一人として同じ死はないと言えると思う。そのことを忘れないでいることが何よりも大事なことだと自分自身に言い聞かせている。

■「ひとりではない」心強さと、「時間をかけていく」力

 ここで東日本大震災から10年を迎えようとする東北・神戸・東京のレインボーハウスの現在を紹介したい。

 日帰りのワンデイプログラムや1泊2日の宿泊など、様々なプログラムを年齢別に開催している。保護者の安定が子どもの安定の土台となるため保護者も同伴で来てくださいとお願いしている。保護者は保護者同士で過ごしていただく。

 子どもたちは、レインボーハウスという空間(おしゃべりの部屋、あそびの部屋、火山の部屋、体育館のようなホールがある)で、同じような体験をした仲間(ピア)とともに日常生活を離れて同じ時間を過ごす(私たちはこれを「時間」「空間」「仲間」の三間<さんま>と称している)。その環境の中で死別後の体験を分かち合い(シェア)、支え合い(エンパワーメント)、それぞれの経験を参考にし学び合う(モデル)。

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子どもたちに寄り添うファシリテーターとは?