地域医療の現場に携わるにつれ、疾病に対する診断と診療のひとつの基準となる「診療ガイドライン」に疑問を持つことが増えたという。

「実際の治療とマッチしにくいケースがあったんです。診療ガイドラインと臨床の差を埋めるためにはどうしたらいいのか、大学院で研究したいと考えました」
 
 3月11日、その日の夜には菅野医師の送別会が予定されていた。
 
 地震発生時、強烈な縦揺れが病院を襲ったが、建物はほぼ無事。停電はしたものの、すぐに非常用電源が作動し始めた。揺れに関しては対応可能なものだった。
 
 しかし間もなく、津波警報が発令される。志津川病院は海からは約400メートル離れていることに加え、津波対策として、入院患者の病室は、3階以上に設けられていた。

 菅野医師とスタッフは入院患者を車いすに座らせたまま持ち上げたり、担架などを使用したりして、階段で5階へと運び上げていった。
 
 津波が押し寄せてきたのは、地震発生から約40分後のこと。ちょうど菅野医師が患者を5階に運んだときだった。その規模は、想定をはるかに超えており、津波の濁流は4階天井部分まで一気に建物をのみ込んだ。
 
 交通がマヒし、陸の孤島と化した病院で、スタッフたちとともにできる限りの患者ケアをしつつ、眠れない夜を過ごした。ようやく救助のためのヘリコプターが病院に到着したのは、地震発生から24時間が経過したとき。
 
 菅野医師が最後の患者とともにヘリコプターに乗り込んだのは13日だった。
 
 地震発生からこの間、救えた命もあったが、救えなかった命も多かった。

「ヘリコプターで石巻赤十字病院に到着後、自分の患者さんを見届け、実家の仙台へ戻りました」
 
 実家では、第2子出産のため帰省していた妻、長女と再会。その3日後には、無事に長男が誕生した。妻の退院を待って、南三陸町へ戻ったのは3月21日。そこからおよそ1カ月、避難所での活動を続けた。

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