東海大望洋高(現東海大市原望洋)時代に走攻守三拍子揃った“篠塚2世”と注目されたのが、長田昌浩だ。

 日米11球団が熱い視線を送り、「将来性では、今年(02年)のアマナンバーワン内野手」と太鼓判を押した在京球団のスカウトも。押しも押されぬドラ1候補だったが、「巨人以外なら進学」と表明したことから、他球団は手を引き、自由枠で木佐貫洋、久保裕也を獲得した巨人が目論見どおり、4巡目指名に成功した。

 翌03年のキャンプでは、高卒ルーキーでは松井秀喜以来の1軍スタート。シーズン開幕後も、GWに1軍昇格をはたすと、5月4日の広島戦で7番サードとして、これまた松井以来の高卒新人野手の初出場初先発をはたした。

 だが、4年間で通算13打数無安打と伸び悩み、同期のライバル・西岡剛(ロッテ)に大きく水を開けられた。さらに06年オフには、谷佳知との1対2のトレードで、鴨志田貴司とともにオリックスへ。当時の巨人は、毎年のように大型補強を繰り返し、現在ほど育成を重視していなかった。めぐり合わせの不運もあったが、たった4年で放出されようとは……。

 オリックスでも移籍1年目に5試合出場の5打数無安打に終わると、翌年以降は2軍暮らし。そして、10年8月、「体力と精神の限界」を理由に、自ら球団に引退を申し入れ、ユニホームを脱いだ。

 どんなに将来性豊かな逸材でも、花開くことなく消えていくケースが多いのも、プロの世界の厳しさである。

 将来のエースと期待されながら、ケガに泣き、“未完の大器”で終わったのが、中里篤史だ。春日部共栄高時代は、一場靖弘(桐生第一)、鈴木健之(藤代)とともに“関東豪腕トリオ”と注目され、01年、ドラフト1位で中日に入団した。

 1年目は2軍で7勝1敗の好成績を挙げ、1軍初先発初登板となった9月16日の巨人戦でも、5回3失点と好投した。

 だが、飛躍が期待された2年目の沖縄キャンプ中、宿舎の階段で転倒しそうになり、とっさに手すりをつかんだ際に右肩を亜脱臼。「投手生命の致命傷になりかねない。完璧に戻すのは難しいのでは…」と医師に宣告された。それでも、復活を信じて懸命にリハビリに励むうち、右肘と腰、再び右肩と故障が相次ぎ、丸3年を棒に振ってしまう。

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藤川並の“火の玉ストレート”を披露