横浜のユダヤ人墓地区画はいまもユダヤ人コミュニティーによって維持されています。そこにはいろいろな時代を生きた、貿易商、商人、教育者、起業家などが埋葬されています。近年では、2015年に亡くなったアルモン・クナッフォ氏です。モロッコに生まれた彼は、幼い頃フランスに移民として渡り、1980年代に来日し、東京にフランス語学校を開校しました。彼は日本をとても愛しており、最期の願いは、日本のユダヤ人墓地に埋葬してほしいということでした。

 日本国内のユダヤ人墓地は長崎と神戸にもあります。両コミュニティーは明治時代にできました。ユダヤ教において、正しい埋葬は死者の鎮魂のためにとても大事なことです。だから新しいユダヤ人コミュニティーができたときには、埋葬地を設置することが重要になります。もう一つは、ユダヤ人コミュニティーにおける生活の基盤となるシナゴーグ(ユダヤ教会堂)です。ここは集会の場であり、祈りの場です。ユダヤ教の教えが書いてある手書きのトーラー(ヘブライ語聖書)が保管され、人々は毎日共に祈りながらそれを読みます。また、ミクべと呼ばれる身を清める沐浴場も備わっています。

 長崎のユダヤ人コミュニティーは1880年代にでき、19世紀初頭にはそのピークを迎えます。当時は約100家族が暮らしており、そのほとんどがロシアからやって来た人々です。当時の長崎は、ロシア、中国そして東南アジアまで伸びる港湾貿易網の重要な中心地でした。1860年代、米国系ユダヤ人のエリアス・トールマンはすでに長崎でビジネスを盛んにやっており、のちにハルビン、上海を経由してきた東欧のユダヤ人商人たちとともにビジネスを行いました。

 1892年、ロシア出身のギンズバーグ家の寄付により、長崎国際墓地の一区画をユダヤ人コミュニティーが購入しました。最初に埋葬されたのは、米国系ユダヤ人水兵ソロモン・キーラーです。1894年には、「イスラエルの家」と呼ばれるシナゴーグが作られました。それは近代日本で最初のシナゴーグでした。

 長崎で最も活動的であった家族の一つがサッスーン家です。財務と貿易に明るく、一家は時に”東のロスチャイルド”と呼ばれるほどの巨大な富を築き上げました。もとはバグダッド出身のユダヤ人で、その後インドのボンベイ(現ムンバイ)に移り、中国全土や東南アジア、英国までその活動の範囲を広げていきました。サッスーン家は、上海とボンベイに本拠地を構え、世界的な交易ネットワークを構築し、横浜と神戸にも支店を設けました。

 一家の息子のひとりであるエリヤス・ビクトゥール・サッスーン卿は、上海の不動産王として知られています。1920年から30年代にかけて土地の開発と建築を手がけ、街のスカイラインを変え摩天楼を作り、世界有数の富豪となりました。彼の不動産帝国は上海租界のほとんどを占め、そこには高級キャセイホテルも含まれていました。もっとも、その後、これらは中国共産党に没収されましたが。

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