とはいえ、モロッコ系ユダヤ人がイスラエルに来たときは、アラブ諸国の一員ということで、欧州系ユダヤ人からアイディンティーや文化を否定されたのも事実です。確かにモロッコは、アラブ国家の対イスラエル戦争のときには外交的にアラブ側に立っていました。政治的にみれば、モロッコとイスラエル間には平和条約はありません。モロッコは公式にはイスラエルと敵対しています。

 こうした状況で、モロッコ系ユダヤ人には、自身の内にあるアイディンティーの衝突が生まれたのです。一方で、モロッコは、イスラエルに移民してきた彼らにとっては忘れられない母国です。その言葉を話し、多くの文化を共有しています。しかし、他方では、イスラエルに移住したことで彼らに新しい祖国・イスラエルに忠誠を期待されたのです。長い間モロッコやアラブ諸国から移民してきたユダヤ人には、このような内なるパラドックスがありました。
 
 こうした状況のなか、12月10日、トランプ米大統領がツイッター上で、米国の支援によりモロッコとイスラエルが国交正常化で合意したという声明を出しました。これは大きな驚きでした。トランプ大統領の声明とその後バイデン新大統領によって現実化されるモロッコとの国交正常化は、多くのモロッコ系イスラエル人に希望を与えました。

 イスラエルは近年、米国の支援のもと過去数か月、アブラハム合意と呼ばれる驚くべき外交上の動きが続いています。9月にはイスラエルはアラブ首長国連邦(UAE)と歴史上初めて国交関係をむすびました。両国間にはすぐに直行便が飛び、イスラエルにとってUAEは人気の旅行先となり、少ないくない数のイスラエル人がすでに渡航しています。外交上の関係はスーダンやバーレーンとも結ばれ、サウジアラビアとも交渉が始まったと報道され、ほかの数カ国も参加するとみられています。

 その中でモロッコとの国交再開の声明は、イスラエル国内で大きな喜びのうちに迎えられ、路上では市民による自然発生的なお祝い続きました。イスラエルのいくつかの町では自治体がモロッコ音楽を通りで流しました。また市民がモロッコの国旗を打ち振り、国王ムハンマド6世の大きな肖像画を抱えている人もいました。最近イスラエルの政府には、文化教育省を中心にアラブ諸国からきたユダヤ人の文化を見直し、国家の一部として受け入れようとする動きもあります。その良い例はミムナと呼ばれるモロッコのユダヤ人独特の祭りです。これらの動きが今回の国交再開に繋がったのかもしれません。

 路上で祝っていた市民の多くはモロッコ系イスラエル人で、彼らにとってこの国交再開は、再び自分たちの母国と連帯し、長い間あった両国の国民としての個人のアイデンティティーの矛盾を解決できることでもあるのです。私の父と母はこのニュースを聞いて本当に喜び、幸せを感じています。

〇Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授、同大東アジア学科学科長。トルーマン研究所所長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年エルサレム・ヘブライ大にて政治学および東アジア地域学を修了。2007年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に送られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。12年エルサレム・ヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。

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Nissim Otmazgin

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〇Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授。トルーマン研究所所長を経て、同大学人文学部長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年ヘブライ大学にて政治学および東アジア地域学を修了。2007年、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に贈られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。2012年、エルサレム・ヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。

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