モロッコのリーダーの肖像とイスラエル国旗を持つモロッコ系ユダヤ人=エルサレム市内で(ニシム・オトマズキン提供)
モロッコのリーダーの肖像とイスラエル国旗を持つモロッコ系ユダヤ人=エルサレム市内で(ニシム・オトマズキン提供)
クスクスがメインとなるモロッコ料理
クスクスがメインとなるモロッコ料理
モロッコのムハンマド6世
モロッコのムハンマド6世
モロッコとイスラエルの地図
モロッコとイスラエルの地図

 私はイスラエル生まれのイスラエル育ちですが、私の両親は2人とも3600万人が暮らす北アフリカのモロッコ出身です。父はモロッコ南西部の港町エッサウィラのユダヤ人家庭に生まれ、1948年、14歳のときに単身でイスラエルに移民として来ました。父の家族は当初、モロッコに残っていましたが、8年後に合流します。母は砂漠の町マラケシュで生まれ、1956年、家族と共に12歳のときにイスラエルに移住しました。二人はイスラエル南部の小さな町ディモナで出会い、結婚しました。

 家庭では、両親や親族は、モロッコの言語(なまりのきついアラビア語)で会話していました。母はときどき私にモロッコ語で話しかけてきていました。言葉だけでなく、二人とも食べ物や音楽を含めてユダヤ系モロッコ人の習慣を残しています。モロッコの伝統料理であるクスクスは子どもの時分には毎週のように食卓にのぼり、北アフリカ名物の香辛料のきいた魚も同じでした。両親はモロッコについての話を私と姉妹にいつも聞かせてくれました。両親はモロッコへの大きな憧憬を抱いていたのです。

 15年前、私は両親と3週間のモロッコ旅行に行きました。忘れがたい経験でした。両親が生まれ育った場所を見て、私は町の通りで話されている言葉が理解できて、市場では値段交渉までやりました。両親の祖国であるせいでしょうか、現地の人たちの表情、衣服、その振る舞いは私にはとても親しみを覚えたのです。

 私の話はイスラエルでは珍しいことではありません。実際、約900万人の人口の約半分がイスラエル生まれではなく、ホロコーストの後に欧州から来たか、1948年のイスラエル建国後、アラブ諸国にいたユダヤ人たちです。日本人の皆さんには、日本の人口の半分が日本生まれでなく母語も日本語ではないという状況を想像できますか? 90年代にも旧ソ連崩壊後、旧ソ連邦内の100万人のユダヤ人がイスラエルに移住してきました。1990年代に500万人だった人口は20%も一気に急増しました。アフリカにもユダヤ人がいます。エチオピアのユダヤ人数十万人もイスラエルに来ました。2020年11月もイスラエル政府専用機でエチオピアのユダヤ人316人がイスラエルに到着したばかりです。

 イスラエルに来たユダヤ人移住者のなかで、モロッコ生まれは25万人です。多くのモロッコ生まれのユダヤ人は1950年代から60年代にかけてイスラエルに来ています。そしてイスラエルの北部と南部の小さな開拓町、周辺部に送り込まれました。イスラエルの市民となり、ヘブライ語を学ぶ一方で、音楽や食べ物といったモロッコのアイデンティティーと習慣を守ってきました。

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Nissim Otmazgin

Nissim Otmazgin

〇Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授。トルーマン研究所所長を経て、同大学人文学部長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年ヘブライ大学にて政治学および東アジア地域学を修了。2007年、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に贈られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。2012年、エルサレム・ヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。

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