飯島さんが亡くなって、その実家にはさまざまな人が訪れたという。

「あるタクシーの運転手さんは、『愛さんのおかげで今の自分は生きていられる。だから、どうしてもお線香をあげたい』と言ってね。娘に『遊んでないでちゃんと仕事しなよ』と怒られて、一念発起。タクシーの仕事に就いて、がんばっているそうなんです」(同)

 飯島さんは1972年生まれ。3人きょうだいの「お姉ちゃん」として、この家で育った。とにかく頭がよく、学校や塾ではその将来を期待されていたが、中学生になるころから家出を繰り返すようになる。家族が繁華街を歩き回って探したことも、一度や二度ではなかったようだ。

「もう帰ってくるな!と叱ると、ほんとうに帰ってこない。でもね、根は悪い子ではないことがわかっていたので、それが救いでしたよ。どこの親もそうじゃないですか?どんなときも、どこかでは娘を信じているようなところがありました」

 例えばお父さんが今でも思い出すのは、小学生だった飯島さんのこんな姿。運動会で障害物競走に出場したときのことだ。

「トップを走っていたのに、最後のハシゴくぐりで後ろを振り返り、『早く早く』と手招きして、他の子たちを先にくぐらせた。結局自分はビリでゴール。そのときは、『競争なんだからだめだろう』と注意しましたが、今では私の自慢話になっています」

 一方、お母さんは、飯島さんとのこんな会話を覚えている。

「テレビで活躍していた頃、娘が私をニューヨークに連れて行ってくれたことがありましてね。ハドソン川のほとりで2人でお茶をしていたときに、娘に聞かれたんです。『お母さん、幸せでしょ?』って。『今はとても幸せ。でもここまで来るには、いろいろあったわね』と返事をしました」

 苦労は多かった。地獄も見た。でも今はいい思い出だけが残る。

「私たちにつらいところを見せたことはありませんが、本人もよほどがんばったから、あんなふうに芸能界でやっていけたのですよね」(同)

次のページ
両親に語った「芸能界引退」の理由