どういうことかというと――。80年には、聖子と入れ替わるようにひとりのスターが引退した。山口百恵だ。

 百恵は貧しく複雑な生い立ちといい、自立志向の生き方を歌いながら結婚して家庭に入った決断といい、70年代までの日本で支持されそうな物語を体現していた。その点、聖子は対照的で、戦後日本が抱えていた重さや暗さからも自由に見え、だからこそ、80年代を牽引するスターになれた。要は時代の空気が変わり、世の価値観も変わったことを誰よりも体現していたのだ。

 そして、彼女が示した軽さや明るさは、今の日本でも好まれている。また、彼女が磨き上げたアイドルのパターンは「ブーム」から「文化」となり、彼女の代名詞だった「ぶりっこ」は「あざとかわいい」に進化した。

 80年が「節目の年」だというのは、そういうことでもある。歌謡界のみならず、日本女性、さらには日本そのものの節目だったようにも思われるのだ。

 しかも、この年には海外でも、ひとりのスターが消えた。ファンによって射殺されたジョン・レノンだ。

 なかには「ロックの死」だと言う人までいて、実際、これはラブ&ピースに象徴される、音楽で世界を変えられる的な幻想の終わりでもあったのだろう。そのかわり、音楽にも多様性の時代がやってくる。そのひとつが、日本のYMO(78年デビュー)も貢献したテクノミュージックの流行だ。80年は、日本のテクノブームが最盛期を迎えた年でもあった。

 そんな多様性のなかには、ファッション志向というものも含まれる。それをわかりやすくとりいれたのが、シャネルズ(のち、ラッツ&スター)だった。白人が作った高級ブランドの名をグループ名に入れつつ、顔を黒塗りにして黒人音楽へのリスペクトを示すという、斬新かつ大胆な発想。この年、アイドルに押されがちだったニューミュージックにおいて、彼らはデビューからヒットを連発した。

 そんなグループを鈴木雅之とともに作ったのが、田代まさしである。その後、コメディアンとしても成功したが、周知の通り、2000年以降、クスリなどで何度も逮捕され、最近は見る影もない。

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アイドルとしてデビューした日高のり子