さらにヴァイヤーは偉大な学者アグリッパを回顧してもいる。

<アグリッパは常に研究に取り組んでおり、外出もせず8日間書斎に閉じこもっていることが時々あった。しかし、いろんな国で起こったことをよく知っていた。人々はこれを魔術のせいにして、悪魔である黒犬が情報をもたらしたに違いないと考えた。しかしそうではない。アグリッパは様々な情報を各地の学者たちが送ってくる書簡によって手に入れていたのだ。>

 アグリッパは超人的な学者であった。17世紀フランスの人文学者で国王にも仕えたガブリエル・ノーデは、アグリッパは神学・法学・医学の三つの学問の新しいヘルメス・トリスメギストゥス(魔術・錬金術・占星術を含むあらゆる学芸・技術の祖とされる伝説上の人物)であり、ヨーロッパ中を旅し、あらゆる学問において知力を駆使した人物であったと評している。このような稀代の大知識人がアグリッパの実像であり、その代表作が『隠秘哲学について』(1531-33年)であった。この著作でアグリッパは断言する。魔術師は、妖術師や迷信深い輩ではない。賢人にして聖職者、そして預言者がそれなのだと。

 法学にも造詣が深かったアグリッパは、1518年にメッスで弁護士として魔女裁判に関わり、魔女として告発され処刑されようとした一人の女を、異端審問官と対決して実際に救っている。母親が魔女であったという理由で魔女とみなされるのであれば、その女が受けた洗礼の恩寵は無効なのかと詰め寄ったわけである。このように『魔女をまもる。』立場で師アグリッパと弟子ヴァイヤーはつながっているのだ。

 アグリッパはその優秀な才能を買われ、王侯貴族に仕えたが、衝突を繰り返し、定職に就くことなく生活費にも困る余生を送り、49歳で生涯を終えた。ヴァイヤーは小国の君主の侍医を務め73歳でこの世を去った。師弟二人、その生き様は異なるが、社会の常識と闘いながら、それぞれに波乱万丈の生を全うしたと言えるだろう。

<著者プロフィール>
黒川正剛(くろかわ・まさたけ)
1970年京都市生まれ。太成学院大学教授。専門は西洋近世史。東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程単位取得退学。博士(学術)。著書に『魔女とメランコリー』『魔女狩り―西欧の三つの近代化』『魔女・怪物・天変地異―近代的精神はどこから生まれたか』などがある。